大谷翔平の活躍に考える「時代と性格」 僕らはそれぞれの惑星からやってきた?
ネット社会における「匿名の性格」
近年における時代変化の最大のものがネット社会化である。 SNSにおける心ない書き込みが人を死に追い込むことが話題になった。学校だけでなく職場にも蔓延するいじめ問題も、公的な場所におけるスマホがマナーを失わせることも、現代社会において「匿名の発信と行動」が、一種の暴力として作用していることを感じさせる。 大勢の人の中の一人となって、個人としての責任と理性を失い過激な行動に走ることを「群衆心理」と呼ぶが、現代情報社会における「匿名の発信と行動」はこれに似ている。 僕はこれまでにも、インターネット上の発信者を「個室の大衆」と呼んで、主にその政治行動について論じてきたが、スマホとイヤホンは、いわば「個室のモバイル化」である。匿名の大衆が、心は個室のままに街の中を歩きまわっているのだ。ネットの都市空間が、リアルの都市空間に染み出してくるのである。 つまり今の日本人は、リアルの性格とともに「匿名の性格」をもっている。メタバースという空間においてはアバターが「もうひとつの人格」をもつが、それとは別に、この社会に「匿名の性格」が分散し肥大している。もちろん、個人の性格は人によってまったく異なるのだが、今の日本に「時代の性格」というものがあるとすれば、それは二つの側面をもち、リアルの性格においては、礼節をわきまえたところが現れ、匿名の性格においては、身勝手なところが現れるのではないか。
才能も性格である
僕の叔母の篠田桃紅(美術家)は、晩年、「運命は性格の中にある」という芥川龍之介の言葉をよく口にした。長く生きてきて、自分(桃紅)の作品も運命も、結局は自分の性格から来ているように思えるということだろう。たしかに彼女の性格と才能と運命には格別なものがあった。そう考えれば、大谷選手の才能と運命も彼の性格の中にある、というべきか。 人間の能力を、その人間の特質としての性格の一部ととらえるなら、優秀な人もそうでない人も、才能のある人もそうでない人も、そういったものはすべて、その人の性格であると考えることができる。能力は比較できても性格は比較できない。イチローの才能もイチローの性格であり、大谷の才能も大谷の性格である。人間はそれぞれの性格を生きるのであって、それを比較したり、喜んだり、嘆いたりすることはないということだ。 たしかに大谷選手はすばらしい。アメリカのアナウンサーは彼を「この惑星(プラネット)の人ではない」と表現した。大谷は大谷の惑星からやってきたというのだ。 誰でもがそうではないか。あなたもあなたの惑星から、僕も僕の惑星から、誰もがそれぞれの惑星からやってきたと考えたらどうだろう。人種や国籍や宗教思想の違いだけではなく、個々の人間の能力も乗り越えて、つまり地球には、それぞれ性格の異なる異星人が寄り集まって生きていると考えたらどうだろう。その方が気が楽だし、面白いではないか。 どうやら太陽系には、無数の惑星があるようだ。大谷惑星人ガンバレ!