『リプリー』自身を重ねたアンソニー・ミンゲラ監督が描く、愛の喪失と痛み ※注!ネタバレ含みます
Netflix版『リプリー』との比較
最後に、全米では絶賛されたスティーヴン・ザイリアンの配信ドラマ『リプリー』との比較について少し書いておきたい。『太陽がいっぱい』や『リプリー』は2時間前後の上映時間だったので、どうしても物語が駆け足になっていたが、配信版は8時間のドラマになることで原作にかなり忠実な完成度の高い作品になっている。脚本・監督のザイリアン(『シンドラーのリスト』/93でオスカー受賞の名脚本家)は80年代に原作を読んだ時から映像化を考えていたという。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)でオスカー受賞のカメラマン、ロバート・エルスウィットのスタイリッシュなモノクロ撮影にも圧倒的な力を感じる。 これまでの2作と決定的に異なるのが、トム・リプリーの年齢設定だ。今回のリプリー役のアンドリュー・スコットもディッキー役のジョニー・フリンも40代。原作のリプリーやディッキーは25歳という設定で、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンも、『リプリー』のマット・デイモンも出演時は20代。だから、主人公の犯罪は“青春の過ち”という印象も与えるが、配信ドラマでは中年ふたりの屈折した関係に変なすごみがある。ディッキーが絵を描いているという設定は原作通りだが、中年にさしかかっても、(あまり才能はあるとも思えない)絵にこだわっているあたりは、なんとも痛い印象だ。リプリーにいたっては、完全に社会の敗者で、いかがわしい雰囲気が漂う(英文のタイトルからは“才能ある”の部分がカットされ、ただの『リプリー』になっている)。 マージ役はダコタ・ファニングで、彼女は旅行記を執筆している。他の2作も同じ設定だったが、ライターとしての人生にはあまり重きが置かれていなかった。しかし、今回は彼女の知的な側面が出ている(着ている服もマニッシュで機能的)。彼女は最初からリプリーを嫌っていて、彼をゲイだと思っている(このあたりも原作通り)。 キャストの中で異彩を放っているのが、フレディ役のエリオット・サムナーだろう。ミュージシャン、スティングの娘で、彼女自身もミュージシャンとして活動している。これまで男優が演じてきたフレディ役にノンバイナリーの俳優が扮することで、フレディ役がこれまで以上に強烈なものとなっている。特にトムの豪華なアパートに押しかけ、詰問する場面はすごくスリリングだ。 そして、この映画全体を支えているのは、やはり、アンドリュー・スコットの圧倒的な演技ではないかと思う。一見、特徴のない顔で、口数も少ないが、微妙な感情をうまく表現できる男優で、トム・リプリーというキャラクターの得体の知れない怪しさを見事に見せる。 以前は脇役を演じることも多かったアイルランド出身の実力派だが、23年は彼の躍進の年となった。『異人たち』(23)ではゴールデン・グローブ賞候補となり、舞台のひとり芝居「ワーニャ」(23、日本のナショナル・シアター・ライブでも上映)ではオリヴィエ賞の主演男優賞候補となる。 後者の舞台ではチェーホフの「ワーニャ叔父さん」のすべての人物をひとりで演じていて、本当に圧巻の演技力。男も、女も、演じきれる変幻自在の演技力の持ち主だ。『リプリー』ではトムとディッキーという二役を演じる演技力が必要だが、どんな役も巧みに演じきれるスコットゆえ、説得力のある演技を見せている。 スコット自身はゲイの男優だが、はたしてトム・リプリーはゲイなのか? これはアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』で淀川長治氏が確信を持って指摘したポイントであり、映画版『リプリー』の主人公は男にひかれつつ、女にも言い寄るそぶりを見せていた。原作者のハイスミスは生前、「トムはゲイではない」と公言していて、後の“リプリー”シリーズの小説に登場する彼には妻もいる。 アメリカの批評家の中には「彼はゲイというより、クィア」と指摘する人もいた。クィアはすべての性を総括するような表現なので、トムは性の境界線があいまいな人物と考えることもできるのだろう。 配信版では彼の性のアイデンティティがはっきり描かれない。だからこそ、彼の存在感が妙に謎めいて見えるし、ノンバイナリーの俳優が演じるフレディとの対決場面にも思わず息を飲む。また、同性愛者ともいわれるカラヴァッジオの絵画の使い方もスリリングだ。配信版のモノクロの映像に登場するリプリー像にはこれまでよりドライな印象がある。 劇中にはかつて『リプリーズ・ゲーム』(02、DVDリリース、監督リリアーナ・カヴァーニ)でリプリーを演じたジョン・マルコヴィッチもゲスト出演。実はリプリーが登場する小説は5作あり、ヴィム・ヴェンダース監督の『アメリカの友人』(77)も、『リプリーズ・ゲーム』と同じ原作の映画化。ここでのリプリー役はデニス・ホッパーだった。 最初に書いたようにトム・リプリーは50年代のアメリカに登場した新しいタイプの反逆児だと思う。歴代のリプリー男優をふり返ると、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンは世の裏側を歩く役を得意としていたし、マット・デイモンが出世作『グッドウィル・ハンティング』で演じていたのも世をすねた孤独なアウトサイダーだ。デニス・ホッパーは50年代の『理由なき反抗』や60年代の『イージー・ライダー』(69)に出演し、公私に渡るハリウッドの反逆児として知られてきた。配信版『リプリー』のアンドリュー・スコットは、『異人たち』を見れば分かるようにどこか臆病な敗者の役が得意だ。そして、それぞれの男優たちは、その時代らしいリプリー像を体現してきた。 それだけ長い年月に耐えうる力が、ハイスミスの原作にはあったということだろう。「才能あるリプリー氏」は、人間としてのアイデンティティ、性のアイデンティティの問題をつきつける普遍的な小説となり、映像作品が作られるたびにトム・リプリーがよみがえる。 文:大森さわこ 映画評論家、ジャーナリスト。著書に「ロスト・シネマ」(河出書房新社)他、訳書に「ウディ」(D・エヴァニアー著、キネマ旬報社)他。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「キネマ旬報」等に寄稿。ウェブ連載を大幅に加筆し、新原稿も多く加えた取材本「ミニシアター再訪 都市と映画の物語 1981-2023」(アルテスパブリッシング)を24年5月に刊行。東京の老舗ミニシアターの40年間の歴史を追った600ページの大作。 (c)Photofest / Getty Images
大森さわこ