『リプリー』自身を重ねたアンソニー・ミンゲラ監督が描く、愛の喪失と痛み ※注!ネタバレ含みます
ジョン・シールのすばらしい撮影と豪華なキャスト
映画の撮影を担当しているのは、『イングリッシュ・ペイシェント』でオスカーも受賞しているオーストラリア出身の名カメラマン、ジョン・シール。ナポリの近くにある海辺の町で撮影が行われ、美しい風景が次々に登場するが、ミンゲラ自身はフェリーニやヴィスコンティなどの映画を思い描きながら、撮影に臨んだという(特に『甘い生活』を意識したという)。 人物たちの心理を映し出す小道具として鏡が何度も登場する。その反映する像には別の人物なりきろうとするリプリーの屈折した心理が映し出されていく。時にはピアノの黒い蓋の上に彼の分裂したイメージが投影されることもあり、こうした細部に渡る映像構成がこの映画のスリルを高める。 特にエンディングの船室の鏡の映像は、どこか重い余韻を残す。愛に傷つきながら、犯行を重ね、やがては自分を見失っていく主人公。その引き裂かれた心理が多面的な鏡の中に浮かび上がる。そして、それが実は冒頭のタイトルバックの映像だったことが分かると、思わず最初からもう一度、見直したくなる。海外では今は“カルト・クラシック”と呼ばれ、何度も繰り返して見るファンも多いようだが、それはこうした映像の魅力に負うところも大きいのだろう。 また、オールスターによる豪華なキャストに思えるが、監督は多くの出演者たちがブレイク前にキャスティングをすませていたようだ。マット・デイモンの場合、彼が『グッドウィル・ハンティング』(97)で人気スターになる前に、この映画の初期のラッシュを見て、主人公に抜擢したという。 自身のアイデンティティを模索しているリプリーの人物像は、マットのその後の代表作“ボーン”シリーズのジェイソン・ボーンにも通じる。トム・リプリーは連続殺人犯の役だが、「この映画ではリプリーの怪物的な側面ではなく、人間的で、親しみやすい部分を見せたかった」と前述の“Flesh Air”のインタビューで監督は語っている。 原作の中で主人公は「なんとも冴えない、人にすぐに忘れられてしまう顔」と表現されているので、素朴な顔のマットを起用することで、<誰の中にもあるリプリー的な願望>を表現できると監督は考えたのだろう。 一見、善良に見えながら、息を吐くように嘘をつき、犯行を重ねるリプリー。「とりえのない本当の自分より、ニセモノでもいいから何者かになりたい」というセリフには凡人の切ない思いが託される。不安的な少年の面影を残したこの時期のマット・デイモンだからこそ演じきれた繊細なリプリー像だろう。 主人公が憧れるディッキー役を演じて、この監督と運命の出会いを果たしたのがジュード・ロウ。監督はこの役には少し大人の雰囲気がある英国男優を起用したいと思っていて、不思議なラブストーリー『クロコダイルの涙』(98)で吸血鬼的な役を演じていたジュードを見てディッキー役に抜擢。カリスマ的で、誰もが憧れる存在でありながらも、どこか傲慢で、気まぐれなディッキー。ジュードは本当にハマリ役で、アン・ロスらがデザインした優雅なファッションの着こなしもかっこいい。 その後、ミンゲラが手がけた『コールド・マウンテン』、『こわれゆく世界の中で』(06)にも主演。来日した時は監督のことを絶賛していて、「彼のためなら、どんな役でも出演したい」と言っていた。監督の他界後は彼の業績を讃えるメモリアル・イベントも開いている。若きジュードの演技者としての可能性を最大限に広げたのがミンゲラで、『リプリー』と『コールド・マウンテン』でオスカー候補になっている。 他にもディッキーの恋人役にグウィネス・パルトロウ、リプリーに恋をする令嬢役にケイト・ブランシェット、ディッキーの友人役にフィリップ・シーモア・ホフマンなど、後にオスカー受賞者となる俳優たちが出演(監督には先見の明があった)。 そして、後半、リプリーに好意を抱くピーター役を好演しているのがジャック・ダヴェンポートである。ジュードが主演した前述の『クロコダイルの涙』では刑事役。その後は『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ(03~07)や『キングズマン』(14)などにも出演しているが、特に目立った印象はない。こういう埋もれがちな英国男優もうまく使うところに、俳優の演出にたけていたミンゲラの力を感じる。