韓国・済州島の「4・3事件」テーマに現代と過去を往来するハン・ガンさん長編「別れを告げない」が描く現代女性の友情と再生
韓国の現代文学をリードする作家ハン・ガンさん(53)の最新長編の日本語版「別れを告げない」(斎藤真理子さん訳)が出版された。1948年に韓国の済州島で起きた島民虐殺「4・3事件」をテーマに、現代を生きる女性たちの友情と再生を幻想的な筆致で描く。5月14日には日本の読者向けにオンライントークイベントが開かれ、作家自身が創作について語った。 【写真】ハン・ガンさん 最新長編は、現代と過去を行き来する物語。主人公の作家キョンハは虐殺を描く小説を書くうちに夢にうなされる。友人のインソンに話し、関連の短編映画を制作することを約束。インソンは済州島出身で、4・3事件を経験した母は悪夢に苦しんでいた。映画制作が進まない中、ケガをしたインソンに頼まれキョンハは済州島の家に向かい、インソンと家族の過去と真実を垣間見る。 韓国では発売1カ月で10万部を突破し22カ国で翻訳出版が決まった。フランスの「メディシス賞」、「エミール・ギメ アジア文学賞」を受賞している。イベントは版元の白水社が主催し、ライターの瀧井朝世さんを聞き手に進行した。 執筆のきっかけは、民主化闘争の光州事件を描いた長編「少年が来る」(14年)以来、悪夢を見始めた体験だったという。「夢の中で足元に水を感じ、墓が見えた。骨が波に流される前に安全な場所に移そう。そう思って走っているうちに目が覚めるのです」。作品のタイトルは「アイスランドの墓地を歩いていた時、ふたつの手を合わせた墓碑を見て思いついた」と明かした。 2018年から19年にかけ済州島に小さな部屋を借りてソウルと行き来しながら書き進めた。20代の頃にも数カ月済州島で暮らしたことがあったと言い「当時、大家のおばあさんから4・3事件の頃に近くの石垣の前で人々が銃殺されたと聞いた。その時に事件が私の中に強烈な実感として迫ってきた」と話した。 過去の声にも耳をすました。物語を具体化するために、4・3事件の証言集を読み込んだ。「個人個人の断片的な証言、感覚的な記憶から全体像を描いていきました」。証言を収集する中で長崎県対馬市に犠牲者の遺体が漂着したエピソードも知り、作中に盛り込んでいる。 鳥や雪が象徴的に登場し、行間に死者の魂が行き交う。「私たちは現在だけでなく、過去と共に生きている。私自身の人生だけでなく、他者の人生をも共に歩んでいる感覚を、超自然的な表現も含めて書きたかった」。そう話すハン・ガンさんは本書を「愛の物語」だと強調した。 「誰かのために祈ること、たとえそばにいなくても、この世にいなくても思いをはせ続けることが愛だと思うのです」 トークの最後には視聴者からの質疑応答もあり、ハン・ガンさんは独自の静謐(せいひつ)な文体を思わせるささやくような語りで丁寧に応じた。 (平原奈央子) ◇「別れを告げない」は白水社刊、2750円。 ◆アジア人初の国際ブッカー賞 ハン・ガンさんは、1970年、韓国・光州市生まれ。父は作家ハン・スンウォンさんで「書物に囲まれて育ったことは幸せだった」。94年に小説家としてデビュー。2005年に「蒙古斑」で韓国の文学賞の最高峰「李箱(イサン)文学賞」を受賞し、16年に同作を含む小説集「菜食主義者」で、アジア人で初めてイギリスの「国際ブッカー賞」を受けた。翻訳家の斎藤真理子さんは、これまでも「ギリシャ語の時間」などでハン・ガン作品の翻訳を担当し、深い信頼関係にある。新作でも済州島方言の翻訳など細部に工夫を凝らし、原文の雰囲気を最大限生かしている。