「大友宗麟」の書状を「偽造」してまでローマ教皇に送らなくてはならなかった「イエズス会の思惑」とは何だったのか
本日(2024年6月19日)放送の『歴史探偵』(NHK総合:午後10:00~午後10:45、再放送:6月25日(火) 午後11:50~午前0:35)に、「戦国ご当地大名シリーズ」一番手として登場する、豊後のキリシタン大名・大友宗麟。 【画像】日本で知られていない、ベルギーに残る大友宗麟を描いた絵画 しかし、天下統一に貢献したわけでもない大友宗麟が、なぜ一番手? じつは、大友宗麟は、当時のヨーロッパでは「日本社会の再有力者」として認識されていました。 なぜそのような「認識のずれ」が生まれたのでしょうか? 番組にも登場する鹿毛敏夫さんの著書『世界史の中の戦国大名』では、その驚きの理由が解き明かされています。 【※本記事は、鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』から抜粋・編集したものです。】
現実以上に膨らんだ「BVNGO」の世界的プレゼンス
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの日本滞在は、天文18(1549)年7月から天文20(1551)年10月までのわずか2年3ヵ月に過ぎなかったが、西日本各地で播(ま)かれた布教の種は、やがてその後継者たちの活動によって成熟期を迎えることとなった。 彼らの宣教活動は、特に同時期にアジア方面への外交・交易政策を重視していた西国大名の志向性ともリンクし、やがて、そのうちの良き理解者数名の授洗に成功して、大村純忠・高山右近・有馬晴信・黒田孝高・毛利秀包らのいわゆる「キリシタン大名」の誕生に結実していくことになる。 大友義鎮(宗麟)も、天正6(1578)年7月にキリスト教の洗礼を受け、日本で布教を進めようとするイエズス会を庇護するキリシタン大名になった。 しかし、九州のキリシタン大名の多くは、純粋な信仰というより、貿易船の来航を視野に入れた受洗であった(五野井隆史「キリシタン大名とキリシタン武将」)。義鎮の場合も、豊後府内や筑前博多でイエズス会に土地を与え、そこからの年貢収益等を教会の活動費にあてることを許可しているが、これは各宗派の仏教寺院や八幡社(はちまんしゃ)等の神社、祇園社等に認めた寺社領政策の一環であり、キリスト教だけの優遇でもウエスタン・インパクトの問題でもない(岡美穂子「布教と貿易」)。 そうした大友氏側の現実的な政策や対応の一方で、ヨーロッパのキリスト教世界では、16世紀後半の日本社会において最有力者と見なされた「Coninck van BVNGO」(豊後王)大友義鎮(宗麟)の入信は、アジア宣教活動のきわめて大きな成果として認識され、ザビエルの功績として広まった。 イエズス会側は、「BVNGO」を拠点とした日本での布教活動を企図し、彼らの世界観における「BVNGO」のプレゼンスは、その現実以上に膨らんでいくことになったのである。