「大友宗麟」の書状を「偽造」してまでローマ教皇に送らなくてはならなかった「イエズス会の思惑」とは何だったのか
教皇やイエズス会総長への書状を「偽作」
大友義鎮(宗麟)に関しては、天正10(1582)年にローマへ遣わした天正遣欧使節の派遣主体の三大名(大友義鎮・大村純忠・有馬晴信)とされていたものが、その後のローマ教皇宛て書状の署名や花押の分析等から、義鎮が関知したものではなく、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと大村・有馬が主導となって行ったものとの評価が有力になっている(松田毅一「天正遣欧使節の真相」、渡辺澄夫「大友宗麟のヤソ会総長充て書状の真偽について」)。 しかし、遣欧使節への主体的関与の否定は、使節派遣の歴史的価値や大友義鎮(宗麟)の人物評価を下げるものではない。天正遣欧使節は、日本人による最初のヨーロッパ訪問ではないが、当時の日欧関係をめぐる膨大な記録を残していることにこそ最大の意義がある(伊川健二『世界史のなかの天正遣欧使節』)。 そして、その派遣を画策したヴァリニャーノにとっては、大村純忠と有馬晴信のネームバリューではもの足りず、教皇やイエズス会総長への書状を偽作してでも「Coninck van BVNGO」からの派遣という形式と記録を調え、その「BVNGO」の王である大友義鎮(宗麟)の名代としての主席正使伊東マンショの派遣を演出する必要があったと言えよう。 この、日本国内史では全国六十数ヵ国分の一の評価に過ぎない「豊後」が、世界史のなかではキリスト教の東アジアでの定着を証するにきわめて重要な「BVNGO」にすり替わって評価・記録された実態は、16世紀の当時を生きた人々の誤解釈として単純に片付けられるものではない。異なる文化や歴史、宗教、価値観、空間を有する人間の相互認識の問題として、そのすり替わりのメカニズムの歴史的意義を考察することこそが重要である。 * 海に出たらやりたい放題!? 「王」を名乗って勝手に外交? ? 鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』では、日本史だけではわからない、戦国大名たちの野心あふれる海外進出が解明されます!
鹿毛 敏夫(名古屋学院大学国際文化学部教授)