就任以上に世間を驚かせた家康の将軍職「交代」
11月19日(日)放送の『どうする家康』第44回「徳川幕府誕生」では、関ヶ原の戦いから数年が経ち、征夷大将軍となった徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。武家の棟梁として国家の運営に力を注ぐ家康だったが、順風満帆とはいかなかった。 徳川家康が征夷大将軍に就任する 関ヶ原の戦いから3年後、徳川家康は征夷大将軍に就任し、幕府を開いた。念願だった戦のない世を盤石なものにするため、家康はさまざまな人材を登用し、幕府運営の基礎を固めていた。 そんななか、長年、忠誠を誓ってきた家臣・本多忠勝(ほんだただかつ/山田裕貴)や榊原康政(さかきばらやすまさ/杉野遥亮)が老いを訴えるようになる。古くからの家臣たちは、合戦のない世の中で自身の身の置き所に迷っていた。 家康の目下の悩みは、上に立つ者としてあまりに頼りない息子の秀忠(ひでただ/森崎ウィン)と、いまだに大きな力を有している豊臣家の存在だった。「関ケ原はまだ終わっていない」と見る家康は、亡き豊臣秀吉(とよとみひでよし)に恩義を感じている者たちが再び豊臣家のもとに参集しつつあることを警戒していた。 その後、家康は将軍職を秀忠に譲った。秀吉の遺児である秀頼(ひでより)がやがて家康から天下を引き継ぐと信じ込んでいた豊臣家や豊臣恩顧の武将たちは、亡き太閤との約束違反、と家康に怒りの声を上げるのだった。 関白職も将軍職も道が閉ざされた秀頼 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は戦後、毛利輝元(もうりてるもと)の所領を長門・周防に減封したり(「吉川家文書」)、長宗我部盛親(ちょうそうかべもりちか)の領地を没収したり(『土佐国編年紀事略』)するなど、各大名への論功行賞(ろんこうこうしょう)を行なった。あくまで豊臣家家臣としての身分で行なわれており、領地朱印状は家康の名では出されていない。とはいえ、領地配分は家康の思いのままに行なわれたという(「隈部文書」)。 一方、1600(慶長5)年11月29日頃、家康は後陽成(ごようぜい)天皇に九条兼孝(くじょうかねたか)を関白に再任するよう奏請(そうせい)している(『兼孝公記』)。これはつまり、豊臣秀吉、秀次、と豊臣家により世襲されていた関白職が、再び五摂家(ごせっけ)と呼ばれる特別な家柄の者たちに戻されることを意味している。 翌1601(慶長6)年元日、大坂城の豊臣秀頼に、次いで家康のもとに諸大名が年賀の挨拶に訪れるという恒例の儀式が行なわれたが、体調を崩していたため、家康への挨拶については延期された(『義演准后日記』『当代記』)。 同年4月12日、伊達政宗(だてまさむね)は家康の側近である今井宗薫(いまいそうくん)に書状を送っている。その内容は、秀頼はまだ幼いが、国を統治する能力がないと家康が見るならば、領国2~3国を差し上げ、一大名として末永く存続させることが望ましいのではないか、と提案するもの。