「軍」にまつわる地図記号の変遷。かつては種類が多かったものの、あるときから森林や田畑の記号に擬装…その理由とは?
◆迅速測図 欧米先進諸国を手本に近代国家として歩み始めた日本が、西南戦争後に始めたのが地形図の整備で、田原坂(たばるざか)など土地勘のない場所での戦闘に苦労した経験から、陸軍卿の山県有朋がとにかく整備を急げと「迅速測図」を作らせた。 言うまでもなく地形・地勢の把握は国防の基本であるが、そのような成立の背景もあって軍関連の記号は種類が多かった。 黒い星印を二重丸で囲んだ「師団司令部」から一重丸囲みの「旅団司令部」、黒星だけの「連隊区司令部」、白い星だけの「要塞司令部及警備隊区司令部」と軍の司令部関連の記号は4種類あり、他には旗にへの字の「陸軍兵営」、同じく二重への字の「海軍兵営」、軍刀と拳銃を交差させた「憲兵隊」が定められていた。 それとは別にM字の「陸軍所轄」、Mが二重になった「海軍所轄」という副記号が設けられており、他の記号と組み合わせて用いている。 たとえば病院の記号にMが副えられていれば「陸軍病院」、学校の記号であれば陸軍通信学校など各種の学校、倉庫の記号(現存しない)に二重Mなら「海軍倉庫」といった具合である。 なお、これまでに挙げた用語は「大正6年図式」のもので、時代による軍組織名の変遷に応じて図式にも多少の変化があった。
◆鎮守府、要港部の記号 独立して作戦を行いうる陸軍の最小の戦略単位である師団は歩兵や砲兵、輜重兵などいくつかの旅団や連隊を擁し、万単位の兵員を抱えて各地方の主要都市に置かれている。 明治21年までは「鎮台」(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)と呼ばれ、第一から第六師団まではその後身だ。前述の第三師団も最初は名古屋鎮台であった。 日清・日露の両戦争を経て軍も大型化されて常設師団は内地に近衛師団と18個師団、朝鮮に第十九・二十の2個師団まで増えた。 しかし第一次世界大戦後の世界的な軍縮気運に加え、関東大震災の膨大な復興費を捻出する必要もあって「宇垣軍縮」が行われ、高田(現新潟県上越市)や豊橋など歴史の浅い師団から廃止される。 久留米の第十八師団もこの時に廃止されたが、第十二師団司令部の所在地を小倉市(現北九州市)から久留米市に移したことで影響を最小にとどめたようだ。政治的な解決だろう。師団がなくなった都市の地元経済への打撃は大きかった。 一方で海軍の鎮守府は横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4ヵ所に置かれたが、その記号は師団司令部の黒星の代わりに海軍のシンボルである錨(いかり)を置き、これを二重丸で囲んだものである。 このうち最も新しい舞鶴鎮守府(明治34年開庁)はワシントン軍縮条約の影響で大正12年(1923)に「要港部」へ格下げとなった(昭和14年に鎮守府として復活)。この要港部の記号は一重丸に錨である。 ただし鎮守府や要港部周辺はすべて要塞区域であったため地形図は一般に販売されず、たとえこれらの記号を知っていたとしても、それらが地形図上に描かれているのを見た人は政府や軍の一部関係者に限られた。