『ヴィオレッタ』美しすぎる少女が母を狂わせる―実在の親子が体験した背徳の世界。47歳になった娘は、母親に損害賠償請求を
◆実在の親子が体験した背徳 映画の成功はこの「フレンチ・ロリータの新星」アナマリア・ヴァルトロメイの発見と母親を演じたイザベル・ユペールのキャスティングで、ほとんど決まったといっていい。無名の新人は、裸体を晒しての新しいロリータ像を作り出し、イザベル・ユペールは初老の自分がすでに失った「少女」の怪しい魅力をわが娘に見出し、憑かれたように撮影する、「モンスター・マザー」像を卓抜な演技で作り上げた。 そして私たちは、かつて実在の親子が体験した背徳の撮影現場に潜り込む。「映画」というものの特権がまさにここにある。私たちは観客として、本当はしてはいけないこと、児童ポルノか芸術か犯罪ぎりぎりの行為に加担し、時にカメラマンになり、時に幼い美少女モデルの視点から、その現場を追体験できるのだ。それは何という快楽だろう!! 映画では、主人公のEVAの名前が「ヴィオレッタ」に変えられ、そのまま日本公開時のタイトルになっている。デュマの小説やヴェルディのオペラで知られる『椿姫』の主人公、娼婦のヴィオレッタを彷彿させるからだろう。母親のイリナは「アンナ」という名前になる。 この母親アンナ役のイザベル・ユペールが演じた母親の狂気には舌を巻くしかない。「実の母親がまさかここまでしないでしょう」という行為や発言でも、イザベルが演じると納得してしまう。その迫力にただ圧倒され、口を開けている間に物語が進んでいくのだ。
◆『母と娘』 それにしても写真とは何と甘美な媒体だろう。私も若い頃に写真モデルをしたのだが、あのシャッターを切る音とライトによって、被写体も撮影側も精神が高揚し、一種のトランス状態に入っていく。それがなんとも快感で、表情がみるみる変わっていくのだ。そして「自分とは思えない」奇跡のような1枚が出来上がる。一度奇跡を見ると、被写体もカメラマンも、「次のさらなる1枚」を求めて暴走して行く。それが写真の持つ魔力だ。 だから、この2人は反発しながらも撮影をやめられない。10歳にも満たない幼い少女が、次第に自身の「女」に目覚めていく様。娘の開花を望みながらも憎み、嫉妬している母親の「女」が相克する様も、よく描かれている。 結局のところ、この映画はポルノグラフィーでもアート映画でもない。『母と娘』という濃密すぎる関係を描いた心理ドラマなのだ。 母親というものは、自分の子どもを自己の肉体の延長のようにして愛するが、しばしばその愛は癒着や支配に代わる。最初のヴィオレッタは、アンナの夢だった少女時代を体現する道具に過ぎない。しかし、娘はやがて自我に目覚めると反発し、モデルをやめようとするが、母は決してそれを許さない。あるいは他のモデルにヴィオレッタのためのドレスを着せて撮影を始め、ヴィオレッタの嫉妬心を刺激して、撮影へと引き戻してしまう。 「私のドレスよ!私がモデルなのよ!!」と叫んでヴィオレッタが母親のアトリエに戻って来てしまうシーンは印象的だ。