「世界の労働者の叫び」メーデーの意味を問い直す
「それほどこの行列は内容を脱却した英国人通弊の趣向偏重に陥って居る。儀礼的な形式主義に力の角々を嘗め丸められてゐる」 第二インターナショナルで5月1日をメーデーの日にしたといっても、各国の労働者は一枚岩ではなかった。そのため、デモ行進もそれぞれの国の状況にしたがって、ある意味牙を抜かれ平和的な儀礼的デモ行進に変わっていたともいえる。 要するに戦後世界各地でみられる、のんびりしたデモ行進のメーデーがすでにイギリスでは始まっていたのである。ちなみにイギリスは今でもこの日は祝日ではない。
しかし戦後の日本は、ある意味解放感にあふれ、メーデーは新しい時代を迎えたともいえる。1946年終戦の翌年の5月1日のメーデーは、新しい時代の期待に満ちあふれていた。中央メーデー会場には40万人が参加したのだという。戦争で被災した社会を反映して、食糧を求めてのメーデーだったともいえる。 ■血のメーデー事件 宮本百合子は「メーデーに歌う」の中で、5月1日、ラジオから流れるメーデーの歌の指導に感動している。(編集部注:「メーデーに歌う」は青空文庫で全文を読むことができます)
「日本のラジオが、5月1日のメーデーを、こうして皆の祭りの日として歌の指導まではじめた。これは、ほんとうに、ほんとうに日本の歴史はじまって以来のことである」 「きけ、万国の労働者、とどろきわたるメーデーの」というフレーズをラジオが指導していたというわけである。確かにこのフレーズは、戦後生まれの子供たちでさえ口ずさんでいたほど、有名であったことが思い出される。 しかしこうした状況を一変させたのが、東西冷戦の始まりとアメリカの占領政策であったことは間違いない。そして1952年「血のメーデー事件」が起こる。明治神宮外苑から皇居前広場にかけての行進の中、皇居前で警官隊との衝突が起き、死者を出す惨事となった。
1952年は日本が独立した年だが、その頃から次第にメーデーには大きな変化が生まれる。組合組織の分裂の中で、権利要求の闘争から次第に祝祭的儀式に変わっていくのである。 しかし不思議なことは、戦後もずっとメーデーが国家の祝日となっていないことである。3月8日の国際女性デーもそうだが、祝日にならないのはなぜか。 さらに5月1日という日ですら、2001年4月以降いつの間にか日本労働組合総連合会連合系は、ゴールデンウィークの前の土曜日に変更してしまったのである。