「世界の労働者の叫び」メーデーの意味を問い直す
とりわけ労働運動の中心地だったシカゴは5月1日からストライキに入る。しかし、これに対し5月3日にマコーミック農機具工場のストライキに警察が介入し5人の死者を出す。 それに抗議する労働者1万5000人がシカゴのヘイマーケット広場に集まり、そこに警察が銃を持って集会を蹴散らし、4人の労働者と7人の警官が死ぬという事件が起こる。これが「ヘイマーケット事件」で、この事件からメーデーの歴史が始まる。 1889年パリではフランス革命100年祭を祝っていた。エッフェル塔がそれを祝う建築物として建設され、万国博覧会も開かれていた。一方で労働者たちが集まって、2回目の国際労働者協会が新たに創設された。
その中心にマルクスの友人フリードリヒ・エンゲルスがいた。ここで正式に、第二インターナショナルとして5月1日のメーデーが問題となる。1893年に5月1日が正式に第二インターナショナルでメーデー(労働者の祝典の日)と定められる。 もちろんそれがすぐに世界で普及したわけではない。5月1日にそろってメーデーとすることになるのは1904年のアムステルダム大会であり、日露戦争の問題が取り上げられたこともあり、日本の労働運動家・社会主義者の片山潜(1859~1933年)なども参加していた。
■十数年で禁止された日本のメーデー ではわが国ではどうだったのであろうか。日本でも大正デモクラシーの時代1920年に1回目のメーデーが行われている。 しかし関東大震災、治安維持法の施行などで次第に政府の弾圧が強化され、開催が困難になっていく。2.26事件のあった1936年にメーデーは禁止される。 イギリスにいた芸術家の岡本太郎の母である作家・岡本かの子は『英国メーデーの記』(1930年)の中でイギリスのメーデーについてこう書いている。(編集部注:「英国メーデーの記」は青空文庫で全文を読むことができます)