「バカ犬」というレッテルを貼られたハチ公の悲劇 戦時の金属供出を経て誕生した銅像が見つめる時代とは
日本のみならず、世界的にもその名が知られる「忠犬ハチ公」。渋谷駅前の銅像はじつは2代目だということをご存知だろうか? 今回は改めてハチが辿った犬生と、戦争を背景に失われた初代銅像、そしてその後の物語をご紹介する。 ■兵士と犬の出会いがその後を変えてしまった 忠犬ハチ公の物語は誰でも知っている。日本一有名な犬だ。しかし、ハチの人生が戦争に向かう時代と重なっていたこと、ハチ自身もその渦に巻き込まれたこと、そして戦後、平和の象徴として復活したことはあまり知られていない。 今、渋谷の駅前に建っているハチ公像は二代目である。初代は昭和9年(1939年)に彫刻家の安藤照によって造られた。 ハチは大正12年(1923年)11月、秋田大館の斎藤才治宅で生まれ、生後2ヶ月で東京渋谷の上野英三郎博士宅へ送られた。だが、わずか1年半後に博士と死に別れてしまい、夫人は家を失う。 ハチも各地を転々として苦労した。後に夫人と暮らせるようになるが、しばらくするとよく家を空けるようになった。夫人が不思議に思っていると、知人から渋谷駅前にいると教えられる。 そこで渋谷駅に通いやすいよう、出入りの植木職人だった小林菊三郎にハチを託した。以後、ハチは小林宅から渋谷駅に通うようになる。だが野良犬と間違われて蹴飛ばされたり、駅員からじゃけんに扱われたりすることもあった。 日本犬保存会創立者の斎藤弘吉は、以前からハチのことを知っていて、その境遇を心配していた。そこで事情を知ってもらおうと、ネタとして新聞社に情報を持ち込んだのである。ハチは、昭和7年(1932年)10月4日付朝日新聞朝刊に「いとしや老犬物語」と題した記事で紹介され、その名を知られるようになった。 ハチの人気は一気に高まり、渋谷近辺では便乗商法が次から次へと登場する。ハチ公せんべいやハチ公チョコレートなどが売り出された。一方で大館では「ハチはうちの生まれだ」と名乗り出るものが後を絶たなかった。 当時は今のように情報網が発達しておらず、ハチについてもわからないことが多かった。ハチを送り出した方も忘れていたから、生前はもちろん死後もなお、ハチの出自は不明だったのである。 やがて最悪の便乗商法が現れた。「上野家から一切を託された」と勝手に称する人間が、彫刻家に木像制作を依頼、それを渋谷駅北口に飾るという。その資金を得るため木版画の絵葉書を作り、駅長にも署名させて売り始めたのだ。 これを目にして彫刻家の安藤照が斎藤に、銅像を建てるため発起人になってくれるよう頼んだ。斎藤は、銅像というのは生きているうちに作るものではないという考えだった。しかし逡巡しているうちに、木像制作のための資金集めが、収集のつかない事態になってしまったのだ。 そこで斎藤も腹を決め、昭和9年(1934年)の正月に銅像制作を発表した。発起人には斎藤と日本犬保存会のほか、東京帝大医学部教授、上野動物園園長、渋谷駅長、上野博士の教え子代表として農林省耕地課長らが名を連ねている。 3月10日には日本青年館で「銅像建設基金の夕べ」が開かれ、ハチや上野未亡人も参加して会場は超満員だった。完成した銅像の除幕式は4月21日に行われた。しかし、すでに晩年に達していたハチは翌年の3月に永眠する。 ハチの葬儀は盛大に執り行われた。僧侶による読経もあり、全国から見舞金が届いた。だが太平洋戦争が始まり戦局が悪化すると、次第に人心が荒廃する。物資不足による金属供出にも拍車がかかり、ハチ公像にも「応召」といういたずら書きがされた。結局、昭和19年(1944年)10月に供出のため撤去された。 やがて翌年8月に戦争が終わると、間もなくハチ公像再建の話が持ち上がる。父と同じく彫刻家になっていた息子の安藤士(たけし)も、制作に強い意欲を持っていた。 敗戦後の日本はまだ寄付を募れるような状況ではなく、渋谷駅長や渋谷商店街の人々が苦労して資金を集めた。銅も足りず、士は父親の遺作を溶解して材料にしたのである。 こうして二代目のハチ公像が完成し、敗戦から丸3年目の昭和23年(1948年)8月15日、除幕式が行われた。まだ連合軍の占領下であり、GHQ連合国総司令部の意向もあったのだろう、アメリカ・イギリス・中国・朝鮮・日本の児童代表が幕を引き、それぞれの国の代表が各国語で祝辞を述べた。 その中の一人で、GHQ法律顧問のH・M・ウィルデス博士は戦前、慶應大学で教鞭を取っていた。だが昭和16年(1941年)の対英米戦開始で帰国を余儀なくされた。その後、ハチ公像も取り壊されてしまったのである。 博士はハチ公像と自分の運命を重ね合わせて、こう述べた。「まことに私の運命とハチ公像の運命は似ている。もうお互いに馬鹿馬鹿しい戦争はしないで、平和に手を握っていこうではないか」。 平和を象徴するうるわしい話のようだが、ハチはまたも政治に巻き込まれたとも言える。考えてみればハチは、生前から様々な人間の思惑に利用されてきた。そのために誤解や中傷も受けてきた。 その代表例が、『週刊朝日』昭和31年(1956年)8月19日号に掲載された「忠犬ハチ公の真相」という記事で、「渋谷通いは焼き鳥目当てなのに、軍国主義に利用された」という説である。 さらに、放送作家が母親から聞いた「主人の死もわからなかった馬鹿犬」説を、大物芸人が今でもテレビなどで話している。字数の関係で詳述は割愛するが、焼き鳥目当て説はデマだし、馬鹿犬説もでたらめである。 博士が亡くなった時、ハチは棺の下から動かず、以後は博士の寝具や寝巻きの入っている押し入れにこもって、何日も何も食べなかった。犬がいかに敏感で繊細であるか知らないと、断片的な見聞だけで、こういう誤解をしてしまうのかもしれない。 物言わぬハチは人間たちの思惑とは無関係に、戦争に向かう時代を黙々と生きた。困難な時代を背負った立派な日本犬だったのだ。そして今も、日々変貌する渋谷の街を見守っている。ハチ公は永遠に渋谷の街犬である。
川西玲子