六本木ヒルズができる前の風景、覚えていますか? 「2003年開業」以前の街並みとは
「六本木の夜を変えた」テレビ局
皮肉なことに、「何もない」とされていたこの場所が、戦後の六本木を象徴する存在を生み出すことになった。1959(昭和34)年、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)がこの地に開局した。同局は東映と日本経済新聞、旺文社が中心となって設立され、麻布材木町55番地の東映所有地に本社を構えた。 このテレビ局は、その後の六本木の運命を大きく変えることになる。昼夜を問わず放送を行うテレビ局の存在は、静かな住宅地であったこの地域にまったく新しい息吹をもたらした。当時、地元の商店街の会長を務めた人物の回想録には、その変化を象徴する興味深い一文が残されている。 「これらの諸施設は、あたかも六本木を取り巻く形となり、民放関係の人々の活動が、六本木のその後の街の発展に大きな力となったのである。民放の就業活動が夜間にまで及ぶため、この街も次第に夜行性の活動を余儀なくされることにもなった」(後藤真『六本木古募列ばなし』、中央公論事業出版 1990年) こうした夜のにぎわいは、材木町の六本木通りに面した地域と、戦前から商店街があった芋洗坂沿いに限られていた。それ以外の地域では、戦後に復興した昔ながらの町並みが残っていた。 興味深いことに、この地域は単なる住宅地ではなく、さまざまな顔を持っていた。前述の金魚屋が示すように、崖下に面したエリアは質のいい地下水を豊富に得られる場所だった。日本教育テレビに隣接する土地には、1958年に東京に進出した「ニッカウヰスキー」が工場を設けている。また、ラムネ工場や瓶詰め工場など、水を必要とする施設も多数存在していたようだ。
芸能人も住む下町、独特の空間
この地域の特徴を象徴する存在のひとつが、日本教育テレビに隣接していた北日ヶ窪団地(1958年完成、5棟、全116戸)だ。この団地は、日本住宅公団による東京の住宅不足解消策の一環として建設され、居住者専用の児童公園を備えるなど、当時としては非常に先進的な設計思想が取り入れられていた。 また、興味深いことに、多くの芸能人がこの団地に住んでいたことも知られている。しかし、この重要な存在にもかかわらず、団地に関する詳細な資料は驚くほど少ない。例えば、当時の週刊誌には 「弘田三枝子は北日ヶ窪団地に住んでいる」 といった記述や、芸能人のファンレターの送り先としての住所が掲載されている程度だ。個人情報の取り扱いが現在よりも緩やかだった時代ならではの記録だが、それ以外の団地の様子を知るための資料はあまり存在しない。 このように、六本木ヒルズの開発以前、この地域は 「さまざまな要素が混在する独特の空間」 だった。現在からは想像もつかないが、豊富な地下水を生かした工場群、先進的な団地、古くからの商店や住宅が共存し、いわば 「山手線の内側の下町」 といえる場所だった。芸能人が団地に住んでいたことは話題にはなったが、特別なステータスを示すものではなかった。むしろ、昔ながらの生活感が残る、東京の普通の住宅地という性格を持っていたのだ。