六本木ヒルズができる前の風景、覚えていますか? 「2003年開業」以前の街並みとは
ヒルズ誕生前夜の町並み
さて、この記事の主題である六本木ヒルズの建つ場所について見ていこう。六本木ヒルズの住所は前述のとおり、港区六本木6丁目である。旧町名では、その北側の一部が「麻布材木町」で、残りの大部分が 「北日ヶ窪町」 だった。材木町は六本木通りを挟んで、通りの北側にも広がっている。 実際、この地域がどのような町並みだったかを示す資料はほとんど存在しない。六本木というエリアに関する記録は多く残っているが、不思議なことに6丁目についてはほとんど言及されていない。 この記事を書くにあたり、さまざまな資料を調べたが、六本木のなかでも6丁目に関しては、後述するテレビ朝日の所在地として触れられる以外に、その様子を知る手がかりが極めて少なかった。 1990年代初頭に、後の六本木ヒルズとなる再開発計画が報じられた際も、この地域の町並みについて詳しく伝えた記事は見当たらなかった。ただし、唯一の例外として地域の老舗金魚店である「原安太郎商店」を取材した記事がある。この店は、本郷菊坂の「金魚坂」と並び、山手線の内側に残る2軒の金魚専門店のひとつとして知られていた。その記事には、次のように記されている。 「六本木は、東京オリンピックのころを境ににぎやかな若者の町になった。その中で、原商店の周辺は、急こう配の地形に木造、モルタルの住宅、低中層マンションなどが立て込み、干潟のように残っていた」(『朝日新聞』1990年5月8日付朝刊) このように、当時の様子を伝える記述は断片的なものしか残っていない。なぜこれほど記録が少ないのだろうか。その理由について、地元の人々が編んだ文集『北日ヶ窪の今昔』(港区六本木北日ヶ窪親和会、1993年)では次のように記されている。 「北日ヶ窪にはとくに名所、旧跡等がなく、また戦災で町が、増島、牧田氏邸のコンクリート造の門及び建物の一部を残しましたが、ほぼ全焼しましたので、現在、当時の記録、写真等はごく少なく(以下略)」 つまり、この地域は名所や旧跡がない普通の住宅地であり、戦災によってその痕跡も失われたため、記録に残すべき対象とは考えられなかったのだ。住宅や商店が立ち並ぶ、東京のどこにでもあるような町並みは、当時は特筆すべきものではなかった。