六本木ヒルズができる前の風景、覚えていますか? 「2003年開業」以前の街並みとは
昭和後期の急変
しかし、こうした普通の下町としての暮らしは、昭和後期に急速に失われていくことになる。 その契機となったのは、前述したテレビ局の進出とそれに続く六本木全体の変容だった。特に、東京オリンピックや地下鉄建設(日比谷線六本木駅は1964年開業)を経た昭和30年代後半には、行政主導で都市計画における用途地域の変更が進められた。例えば、芋洗坂周辺が商業地区に用途変更されたことで、従来の地元密着型の商店街は次々とビルや飲食店に置き換えられていった。 この変化は、六本木全体にとっては「発展」と呼べるものだったかもしれない。しかし、長年この地で普通の暮らしをしてきた住民たちにとって、その影響は非常に深刻だった。地元の人々の声を記録した前出の文集『北日ヶ窪の今昔』には、彼らの苦悩が生々しく記されている。 「区は只賑かな街になればよいというだけでどんなよい街にしようという構想もなかったようです。この街にある中学、通学路とする高校、小学校の生徒にはマイナスになるような酔態を朝から夕方まで見せる街。住民が一番困ったのは一晩中朝まで鳴らしている生バンド、カラオケにすっかり安眠を妨害されたことでした。警察や区役所に頼んだり、新聞の“声欄”に投稿したり、与論にも訴えました。日本の各地にも起こっていた問題でもあって、その後都の条例により、ひどさは緩和されましたが、「ひどい街になった」と、越してしまった家も何軒かありました」(原文ママ) こうした環境の悪化によって、1980年代初頭にはこの地域は住宅地としての機能を失いつつあった。映画評論家の松田政雄は、1983(昭和58)年にこの状況について記している。 「1956年から57年にかけて本稿の主題である<赤坂・六本木>のうち後者とは地続きの材木町界隈に縁あって仮のねぐらを定めたこともある私といえども、今回の街あるきを通して、ついに、これぞ六本木の<原風景>と呼ばれうべきものに出会いようもなかったのである」(「タテとヨコが交差する反クリスタル地図」『現代の眼』1983年3月号) 松田の指摘が示すように、1983年の時点ですでにかつての下町としての風情は完全に失われていた。それにともない、生活自体も困難になっていた。そんな周囲の発展から取り残されたこの地域で、住民たちが六本木ヒルズの再開発に活路を見いだしたのは、ある意味で必然だったといえる。
六本木が教える記憶の難しさ
この六本木の事例が示しているのは、都市における 「記憶の保存」 の難しさだ。現在、各地の再開発では昔ながらの町並みの一部を保存して、地域の記憶を残そうとする試みがよく行われている。しかし、六本木の経験は、こうした 「選択的保存」 の限界を教えている。町並みは単なる建物の集合ではなく、そこに暮らす人々の生活や地域のコミュニティーがあってこそ成り立つものだ。これは今後の都市再開発において、私たちが真剣に向き合うべき課題だろう。
昼間たかし(ルポライター)