「刀伊の入寇」とはどんな事件だった?大宰権帥・藤原隆家が活躍した平安時代の未曾有の危機を、時系列で徹底解説
■ 隆家、自ら最前線で指揮を執ることに【4月8日】 4月8日、刀伊の兵船が筑前国那賀郡能古島(現福岡市西区)に来着した。 刀伊軍に対応するため、能古島の南方に位置する博多警固所(防衛施設)に、神尾佑が演じる平為賢らが派遣され、防衛にあたった。 大宰府はこの日も解文を作成し、飛駅使を都へ送っているが、それによれば、隆家が自ら軍を率いて警固所に至り、合戦することになったという(『小右記』寛仁3年4月18日条)。 心酔する隆家が最前線で指揮を執る――大宰府軍の士気は、さぞかし上がったことだろう。 ■ 平為賢の活躍【4月9日】 4月9日早朝、刀伊軍は博多田(現福岡市博多区)に来襲し、警固所を攻撃した。 この時、平為賢とおそらく彼の一族と思われる平為忠が、「帥首(指揮官)」として敵軍に馳せ向かい、多くの敵を射殺した。刀伊との戦いにおいて、為賢はめざましい活躍をみせたといわれる(野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』)。 また、藤原実資の日記『小右記』寛仁3年4月25日条には、刀伊人は筥崎宮(現福岡市東区箱崎)を焼こうとしたが、大宰府兵が前行する兵を一人射殺したところ、船に乗って逃げ出したことが記されている。
■ 未曾有の危機、去る【4月10日~4月13日】 その後の二日間は、「神明ノ所為(神仏の加護)」のように北風が猛烈に吹き、刀伊人も上陸できなかった。 そのため大宰府側では、兵船38艘の急造がかない、刀伊軍の来襲に備えることができた。 刀伊軍が4月11日未明に筑前国志摩郡船越津(現糸島市志摩船越)に姿を見せた時には、派遣された大宰府方の精兵が、すでに待ち受けていた。 4月12日の酉剋(午後5時~7時)、刀伊軍は上陸し、大宰府方の兵と激しい戦闘となった。 その結果、40余人の刀伊軍の兵が矢に当たって死去し、2人が捕虜となった。 勝ちに乗じて大宰府軍は、平致行や平為賢らが、船数十艘で追撃する。 すると隆家は、「先ず、壱岐・対馬等の島に至るように。日本国境に限って襲撃するように。新羅(高麗)国境に入ることのないように」と誡めたという(『小右記』寛仁3年4月25日条)。 翌4月13日、刀伊人は肥前国松浦郡に出没し、沿岸の村々で劫掠を行なった。 これを前肥前介(さきのひぜんのすけ)源知が、郡内の兵を率いて退却させた。ついに刀伊軍は海の向こうに帰っていったという。 こうして、隆家らは刀伊軍の撃退に成功し、危機は去ったのだ。 隆家は実資に、「異国人は去りました」としたためた書状を送ったという。