「刀伊の入寇」とはどんな事件だった?大宰権帥・藤原隆家が活躍した平安時代の未曾有の危機を、時系列で徹底解説
大河ドラマ『光る君へ』第46回「刀伊の入寇」で、大宰府を訪れた紫式部(まひろ)が巻き込まれた刀伊の入寇は、どのような事件だったのだろうか。 【写真】刀伊の襲来を受けた筥崎宮。楼門にある「敵国降伏」の扁額は鎌倉時代の元寇以降に掲げられたとされる 文=鷹橋 忍 ■ 大宰権帥・「さがな者」藤原隆家 刀伊の入寇とは、寛仁3年(1019)3月末~4月にかけて、刀伊(東女真族)が対馬・壱岐、および北九州方面に攻め込み、甚大な被害を与えたという大事件を指す。 この未曾有の危機に、九州統治の最高責任者として大宰権帥(大宰府の次官だが、実質上の長官)の任についていたのは、竜星涼が演じる藤原隆家だった。 隆家は、歴史物語『大鏡』第四巻「内大臣道隆」に、「世の中(天下)のさがな者」と世間から称されたとある。 さがな者は「規格外の乱暴者・無鉄砲者」(関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』)、「やんちゃ坊主」(石川徹校注『新潮日本古典集成 大鏡』)、「がむしゃら男」(保坂弘司『大鏡 全現代語訳』)などと訳される。 隆家は長和3年(1014)11月7日に大宰権帥に任じられ、翌長和4年(1015)4月21日に赴任した。 『大鏡』によれば、隆家が善政を敷いたため、九州の人々は彼に心酔したという。 大宰権帥の任期は5年である。任期終了まであと少しとなった寛仁3年に勃発したのが、刀伊の入寇だ。 隆家が41歳、藤原道長が54歳、秋山竜次が演じる藤原実資が63歳の時のことである。
■ 刀伊の入寇、はじまる 【3月28日】 刀伊の入寇の推移は、倉本一宏『藤原伊周・隆家 ――禍福は糾へる纏のごとし――』、関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』などによれば、以下の通りである。 まず、3月28日、刀伊の兵船50余艘が対馬島を襲来し、殺人、拉致、放火の蛮行に及んだ。 対馬島では18人が殺害され、116人が捕虜となっている。 同日、壱岐島も蹂躙されている。壱岐守の藤原理忠を中心に防戦するも、148人が殺害、239人が捕虜となる大打撃を蒙った。藤原理忠も殺されている。 「賊徒」の来襲は対馬島から逃れた対馬守遠晴により、4月7日に大宰府に伝えられた。 また、壱岐島で賊徒を三度も撃退したとされる壱岐島分寺講師(国分寺に置かれた僧侶)常覚も、同日に大宰府に着き、壱岐守藤原理忠をはじめ、多くの島民が殺害されたことを告げた。 ■ 怡土郡、志摩郡、早良郡、蹂躙される【4月7日】 大宰府に、刀伊の来襲の報が伝えられた4月7日、刀伊の兵船は筑前国怡土郡に上陸。怡土郡は殺害49人、拉致216人、馬牛33疋頭という被害を受けた。 同日、志摩郡と早良郡にも攻め入り、それぞれ殺害112人と19人、拉致435人と44人、馬牛74疋頭の被害が出ている。 突然の出来事ゆえに日本側は迎撃の体制は整っていなかったが、志摩郡の文室忠光が急ぎ派遣された大宰府の兵と共に防戦。賊徒数十人を倒し、撃退したという。 この日、大宰府は状況を朝廷に伝えるため、解文(報告書)を作成し、飛駅使(早馬)を都へ送った。 隆家も親しい間柄の実資に、「刀伊国の者50余艘が対馬島の来着し、殺人・放火しています。要害を警固し、兵船を差し遣わします。大宰府は飛駅で言上します(倉本一宏『現代語訳 小右記10』)」としたためた私信を送っている。 これらと、翌4月8日に送った飛駅使が都に到着するのは、4月17日のことである。