本能寺の変で倒れてしまった信長の後継者であり嫡男【織田信忠】
織田信長の息子たちは12人を数えるが、そのうちで歴史にその名が残されているのは、嫡男・信忠(のぶただ)と母を同じくする兄弟の2男・信雄(のぶかつ/北畠)、3男・信孝(のぶたか/神戸)くらいである。本能寺の変以後は、信雄・信孝は織田家の後継者争いを演じ、結果として豊臣秀吉によって命を絶たれるような信長の息子らしからぬ人物たちであった。 だが信忠は例外で、もし本能寺で父・信長と共に非業の死を遂げなければ、後の秀吉政権もなく織田家は磐石であったかも知れない、とされる。 信忠は、信長の嫡男として弘治3年(1557)に誕生した。母は、信長の側室で生駒家の吉乃。幼名を奇妙丸といった。もちろん、信長の合戦には多く参戦しているが、信忠が武将としてその真価を発揮したのは、天正10年(1582)の甲州・武田攻めの時であった。 この年の2月、武田方であった木曽義昌(きそよしまさ)が武田勝頼(たけだかつより)に反旗を翻し織田方に寝返った。勝頼は1万5000の兵を率いて諏訪口に陣取った。これをきっかけにして武田討ちを決めた信長は、徳川家康を駿河口から、北条氏政(ほうじょううじまさ)を関東口から、金森氏を飛騨口から、それぞれ出陣させた。信長は、信忠を先陣として織田軍団を岐阜から出陣させた。 信忠は、軍団を2手に分けると木曽路と伊那口から、信州に攻め込ませた。信忠の本隊は高遠城に殺到した。信州1の名城といわれる高遠城ではあったが、信忠は僅か2日で攻め落とした。信忠は搦め手口付近で先頭に立って塀際に押し寄せ、柵を破り、塀の上に立って指揮したほどの奮戦であった。 勢いに乗った信忠軍は甲州・新府城に向かった。勝頼は、戦うことなく城を棄て大月の岩殿山に逃亡を図った。そして10日、勝頼は天目山で討ち死にする。 このように無謀な戦さをした信忠に、信長は自身の若き頃を見るような思いであったろう。その武功を褒めて「信忠は天下人になる器である」と、自分の地位を信忠に譲る方針を家臣団に告げたのだった。この時に信忠が率いたのは、美濃衆・尾張衆など織田軍の中枢部隊であった。 そして、運命の6月2日がやってくる。京都・妙覚寺に宿泊していた信忠は、その日の明け方、信長の宿坊・本能寺が明智光秀に攻められていると知って自ら援軍に駆け付けようとしたが、駆け付けた京都奉行・村井貞勝(むらいさだかつ)から、信長が討たれたことを告げられた。村井は、程なく攻め寄せる明智軍に備えて二条御所に移るように進言した。部下の中には「急ぎ安土に戻って再起を帰すべし」という意見もあったが、信忠は「これほどの謀叛を企てる男だから準備は万全であろう。洛中から逃げ出すことなど不可能だ。途中で果てるよりは、ここに留まって戦う」と覚悟を示した。 二条御所に移った信忠は、誠仁親王(正親町天皇第1皇子)と公家衆を避難させた後に最後の戦いに挑んだ。手勢は約500。明智軍は1万5千。信忠は明智の大軍に反撃し、2度に渡って撃退したほどであった。そして、共に戦っていた弟・御坊丸信房(信長5男)とともに打って出ると、17,8人を斬り伏せるなど奮戦し、火の回った二条御所内に入って自刃した。享年26。
江宮 隆之