クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書。/紹介書籍『ガザ日記 ジェノサイドの記録』
無力さを共有し、連帯するための沈黙
息子を連れての帰省中。いい天気の朝。「今日はいい日になるぞ」とビーチに向かって車を走らせる。パンツ一丁で海に入って泳いでいたら、遠くの軍艦からロケット弾が飛んできて爆発音が鳴り響く。見上げると、ロケット弾が描いた白い煙の筋がまるで装飾のように空を飾っている。「どうせいつもの嫌がらせだろう」とうんざりしながら、泳いで岸まで戻る。 小野寺伝助さんの読書案内「クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書。」 まるで戦争映画の始まりみたいな描写だけど、これは映画や小説の冒頭ではなく、ある国の、ある時代に暮らす人によって記された日記の冒頭だ。 ある国とはパレスチナで、ある時代とはいまこの時代だ。 私たちが暮らす日本では、海水浴中にサメがでてきてパニックみたいなことは起き得るけど、ロケット弾が飛んでくることはない。地震の揺れで夜中に目を覚ますことはあるけど、ミサイル砲撃による揺れで目を覚ますことはない。部屋に入り込んだ蚊の飛ぶ音で寝苦しい夜はあるけど、上空に飛ぶドローン監視機の唸る音にイライラする夜はない。子どもが物を失くさないために自分の持ち物に名前を書くことはあるけど、自分の身体に名前を書いて死んでも身元がわかるようにする日常はない。 その全てが、パレスチナ・ガザ地区にはある。 『ガザ日記 ジェノサイドの記録』はイスラエルがガザに進攻した2023年10月7日から始まる約80日間の日記で、著者はパレスチナ人の作家だ。 冒頭の映画みたいなシーンから始まって、その後も避難したホテルのロビーで爆撃によって巨大なコンクリートの板が天井から落ちてくるのをギリギリで避けたり、砲弾が空中を横切って飛行するのを部屋の窓から眺めたり、目の前の建物が爆撃されて必死に逃げたり、友人や親戚が死んで泣き崩れたりといった感じで、まるで戦争小説を読んでいるような錯覚に陥る。ミサイルの残骸が転がり、全てが瓦礫になった街で著者はこう思う。 「これは攻撃ではなく、皆殺しだ。まるで戦争映画の最終シーンのようだ。」(P.154) しかしそれは紛れもない現実で、私は読みながら呆然としてしまった。 普段、仕事を終えて子どもを寝かしつけて、疲れきって起き上がれずスマホをぬぼーっと眺めていると「イスラエルがガザの学校攻撃、100人以上が死亡」みたいなネットニュースが定期的に流れてくる。その度に心を痛めるけど、自分が疲れていたり余裕がないときは、さらっと読み飛ばしてしまう。主観を排し、大きい主語で大勢に向けて語られる報道記事には実感が沸かないからだ。一方、瓦礫と死体が転がるガザの街を舞台に、主語が「私」で語られる個人の日記には、報道記事に宿らない実感が伴う。 私は毎晩、一歳児の我が子が寝息を立てて眠る横で少しずつ読み進めたのだけど、本書の中では生まれたばかりの子どもを抱えて避難するガザの若者が紙おむつもない、食べ物もないという状況に置かれていて、私も一緒に途方に暮れた。子どもを爆撃で失って泣き崩れる父親の悲しみは、想像を絶した。寝息を立てて横で眠る我が子は朝になれば起きるけど、ガザには一生目を覚ますことのない子どもを抱えて泣き叫ぶ父親がいる。 著者のいとこは爆撃によって家を失い、中にいた息子と娘が瓦礫の下に埋まった。座って泣き続けるいとこの横に、著者は無言で座る。 「私は彼の横に座った。何も言ってやれることがない。沈黙は連帯の一形態だ。無力さを共有する表現なのだ」(P.99) パンクスが古くから掲げてきた信条の一つはNO WARだ。あらゆる暴力に反対し、戦争のない世の中を希求する。しかし、圧倒的な暴力を前に、無力感を覚え、言葉を失う。口からでる「NO WAR」が虚しく感じる。言葉を失って、沈黙するしかなくなる。沈黙することは罪なんじゃないかと、さらに気後れする。 しかし、同じ沈黙でも、知らないことを知らないままでいる沈黙と、知ろうとして知った上で言葉を失くす沈黙は違う、と思いたい。後者の沈黙は、無力さを共有する表現であり、連帯の一形態になり得る。 本書を読んだ私は、今も悲しみに暮れるガザの市井の人達に思いを馳せ、無力だけど気持ちだけは常に寄り添い、横に座り、連帯したいと思った。小さき者同士の連帯、ユニティもまたパンクスの大事な信条だし、それが世界を変える可能性を秘めていると信じているからだ。
書籍紹介
『ガザ日記 ジェノサイドの記録』 著:アーティフ・アブー・サイフ 訳:中野 真紀子 出版社:地平社 text: Densuke Onodera, photo: Yuki Sonoyama, edit: Yu Kokubu
POPEYE Web