禅が教える「居場所」と「孤独」のほどよいバランス 「つながるべき」か「つながらないべき」かの基準とは
だから慌てるのです。 仕事も趣味も友人もなく、一人ぼっちになった夫は妻にべったり。 いわゆる「濡れ落ち葉」のできあがりです。 「定年後なんてはるか先だよ」と思う方も、今すぐ居場所づくりを始めて早すぎるということはありません。第一「安心してありのままの自分をさらけだせる」場所など、そう簡単には見つからないでしょう。 「ここにいると、ほっと一息つけるな」 最初は、そう思えるだけで上出来です。それを大切に大切に、時間をかけて、自分の居場所へと育ててゆくことです。
■孤独の時間にも価値を見つける 「居場所」を求めることは人間の本能とも言えますが、その一方で、私たちは時に「孤独」と向き合う必要もあります。 どれだけ居心地の良い場所があったとしても、禅は最終的に私たちは自分自身と向き合わなければならないと説きます。ここからは、禅の教えを通じて、「孤独」の価値について考えてみましょう。 どれだけ家族や友人に恵まれていても、私たちはそれぞれが「ひとり」であり、どこまでいっても「孤独」である。禅にはそんな考え方があります。
時宗の開祖であり、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」を流布したことでも知られる一遍上人も、「人は生まれた時も独り、死ぬときも独り。この世を人と暮らしても独りである」という言葉を残しました。 また、2021年に亡くなった瀬戸内寂聴さんも、一遍上人の言葉に感銘を受けて「人は孤独です。孤独だからこそ、人と寄り添いますが、決して一緒に死ねるものではありません」と語っています。 一遍さんは、世俗的なものを一切捨て、ただ「南無阿弥陀仏」を唱えることを説く「捨聖(すてひじり)」でした。
家族も衣食住も捨て全国を遊行し、晩年には「旅衣(たびごろも)木の根かやの根いづくにか身の捨てられぬ処あるべき」(木の根本でも茅の根本でも、どこで死んでも構わない)という和歌を詠んだほど。 ただ、一遍さんのいう「独り」は恐らく、現代人が思うほど悪いものではなかったろうとも思います。 なぜなら、禅においては、孤独は人として自然な状態であり、耐えるものでも、悲しむべきものでもなく、ただ「受け入れる」もの。