「テレビスタッフから聞いて知った」真弓明信氏…阪神へのトレード仰天エピソード ライオンズ時代はオフに中洲でアルバイト!?
昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る! 【画像】真弓氏が首位打者を獲得するきっかけとなったトレーナーのひと言 昭和60年、日本一に輝いた阪神タイガースの1番バッター・真弓明信氏。先頭打者ホームランは歴代2位の41本、そのうちセ・リーグで放った38本はリーグ最多記録として名を残している。昭和58年には首位打者を獲得するなど、タイガース史上最高の切り込み隊長に德光和夫が切り込んだ。 【中編からの続き】
東尾修氏は死球を狙ってた!?
昭和44~46年にプロ野球選手の八百長・賭博への関与が相次いで発覚し、6名が永久追放処分となった“黒い霧事件”。その中心だったライオンズはエースの池永正明氏など4名が永久追放処分になった影響で人気が低迷。西鉄が球団経営から撤退したのもこの“黒い霧事件”がきっかけだった。 徳光: 球団名が変わって、当時のライオンズの雰囲気はどうだったんですか。 真弓: “黒い霧事件”があって、スター選手だったりエースだったりがいなくなって、本当に人気がなくなってる時代でしたからね。 徳光: そんななか、東尾(修)さんがエースになっていった。 真弓: 東尾さんはね、ものすごくコントロールがいいんですよ。 徳光: スレスレなんですよね。 真弓: デッドボールもかなり当ててるんですよね。これは言っていいか悪いのか…、東尾さんのことだからいいんですけどね、「当てようと思ったときは、頭の後ろにボールを投げる」って言うんですよ。バッターってね、頭のところにボールが来ると前にはあんまりよけない。後ろによけるんです。そしたら、丁度当たる。 僕が1年目のときに「ピッチング練習するときにバッターボックス立っててくれ」って呼ばれて、「インコースの高めにいくから」って。そしたら、ずっとインコース高め、ほんとスレスレですよ。最初はよけてたんです。途中から「これ、よけなくてもいいんちゃうかな」と思った。本当に全部スレスレに投げますからね。 「あれだけコントロールがいいのに、何であれだけの人に当てたのかな」と思って…。本当に当てにいってましたね。 徳光: 野手のほうはいかがでしたか。 真弓: 4番が近鉄から来た土井(正博)さんですよ。その頃、僕は寮を出て空港の近くに住んでたんです。土井さんは、そこから平和台球場に行く途中のマンション。だから僕はいつも車で土井さんを迎えに行ってから球場に入って、帰りは中洲に送ってました。僕は土井さんの運転手でしたね。
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