竹原慎二52年の人生山あり谷あり “広島の粗大ゴミ”から奇跡の世界王者へ どん底にいたって必ずはい上がる これが俺の生き方…前編
1995年12月19日、日本ボクシング界に奇跡が起きた。超満員の後楽園ホール。竹原慎二(52)はWBA王者ホルヘ・カストロ(アルゼンチン)を破り、日本人で初めて世界ミドル級王座を獲得した。あれから約30年。竹原はジム会長として後進の指導に当たり、またユーチューバーとしても活躍中だ。「広島の粗大ゴミ」と表現され中学卒業後に上京した竹原は、これまで何度か人生のどん底を経験したという。それでも“KO”寸前になりながらも立ち上がり、はい上がることに成功してきた。「後楽園ホールのヒーローたち」第15回は「奇跡の男・竹原」に山あり谷ありの半生を聞いた。(取材、構成・近藤英一)=敬称略 × × × × けんか自慢がジムを訪れる。竹原に向かい暴言を吐く。スパーリング。目いっぱい手加減したパンチでも、けんか自慢はリングに崩れ落ちる。そして最後は頭を下げ帰っていく。 YouTubeチャンネル「竹原テレビ」でのお約束ともいえる流れは、勧善懲悪を思わせる内容に見終わればなぜかすっきりした感覚を覚える。ミドル級で世界のベルトを手にしたのが、1995年12月の23歳の時。それから約30年がたち、来年1月25日には53歳を迎える。 「さすがにきつい。20歳そこそこの元気がありあまっている人間と、50歳を超えた人間では体力が違いすぎる。もうスパーは勘弁」と笑うが、いまだ圧倒的な強さを披露する。これもTBS系人気バラエティー番組「ガチンコ!」の影響だ。99年から2003年にかけて放送された同番組のメイン企画となったのが「ガチンコ!ファイトクラブ」。不良少年たちを集め、ボクシングのプロテストに合格させるという企画でのコーチ役が大当たりした。鬼軍曹として不良たちとぶつかり合いながらも鍛え上げる。その印象が強いのか、番組終了から20年以上がたった今でも「竹原を倒してやろう」「竹原は本当に強いのか」という血気盛んな若者がジムを訪れてくるのだ。 「自分の人生を変えてくれたのが『ガチンコ』。始めはちょうど店(イタリア料理)をオープンした頃で、店の宣伝もかねて3か月ぐらい出演すれば程度に考えていたんですが、ふたを開ければ人気企画になって3年半続いたんです。自分の人生は浮き沈みがあって、あの時はどん底にいた自分を救ってくれた番組でした」 竹原は人生のどん底を何度か経験したという。始めは広島の中学時代だ。 「正直言ってあの時は自分の中でのクロ歴史。あれが本当のクズという人間なんでしょうね」 中学時代、父が突然蒸発すると、兄がグレ始め竹原も自然と倣った。夜の学校に無断で忍び込み、プールに飛び込み悪ふざけする。「何かいいことないかのー」。友達とこの言葉を繰り返し、年齢的に吸ってはいけないものを吸って時間を潰す。けんかで相手に大けがをさせ2度入院させた経験もある。「母親が相手の入院費と慰謝料を用意してくれたおかげで示談ですみました。それがなければ間違いなく少年院に行っていました」。ろくに学校も行かない中学生は、高校受験で専門学校を含め受けた5校すべて不合格となる。進学をあきらめ次に進んだのが暴走族。素行は加速して悪くなり、手のつけられない暴れん坊となっていた。 これが「広島の粗大ゴミ」といわれた時代である。ちなみにこの「広島の粗大ゴミ」という言葉は地元でつけられたものではなく、ボクシングの世界挑戦の際に、テレビ局が過去の歴史を振り返り、キャッチフレーズ的につけたもの。ただ、竹原の広島時代を表現するのにこれほどマッチする言葉は他にないだろう。 父は蒸発から数年して家に戻るが、息子の素行の悪さは一向に改善されなかった。「このままでは完全に人間のクズになる」。そう思った元プロボクサーの父は、知人を介して同じ広島出身で協栄ジムのトレーナーをしていた宮下政生を紹介してもらい、息子を東京でボクシング修行させることを決める。宮下は沖ボクシングジム会長となることが決まっていたが、竹原が上京した当時はまだジムが完成しておらず、新宿区にあった協栄ジムを間借りする形で練習していた。 ここで竹原は他ではできない貴重な体験をする。 「旧ソ連軍団とのスパーリングです。とにかく全員がものすごく強かった。ボコボコにされましたが、一緒に練習させてもらい得るものは多かった。一番勉強になった時間でした」 多大な影響を受けたのは90年に来日した旧ソ連からのペレストロイカ軍団。勇利アルバチャコフ(元WBC世界フライ級王者)、オルズベック・ナザロフ(元WBA世界ライト級王者)、スラフ・ヤノフスキ―(元日本スーパーライト級王者)、スラフ・ヤコブレフ(ヘビー級)らのアマ世界王者が来日し、協栄ジムからプロデビューした。選手らを指導するトレーナーのアレクサドル・ジミンも一緒に来日。竹原はジミンから世界トップレベルの指導も受けている。 「自分がまだ4、6回戦の時代にナザロフ、ヤコブレフとはスパーリングをしました。かなうわけがありせん。でも、その日の目標として、何か一発でもいいからパンチを当ててやろうと心に決めてスパーをするんです。10回打たれても1回いいパンチを打ち返そう。回数を重ねるごとにそれができるようになったんです」。ナザロフのスピードに翻弄(ほんろう)され、ヤコブレフのパワーには鼻から流血しながらも歯を食いしばり、将来の肥やしにした。 当時18歳の少年は毎日がホームシックとの闘いだった。「広島に帰りたい、帰りたい」。そう思いながらも「まだ帰れない」。東京・池上の内装会社で働きながら、新宿のジムに練習に行く毎日。「友達はいない。お金もない」。クズだった自分を変えようと飛び込んだボクシングの世界。何も結果を出さないまま広島に戻るわけにはいかなかった。 心に決めていたことがひとつある。 「1回負けたらボクシングを諦めよう」 その言葉を心に刻みリングに上がったが、負けないために最大限の準備をしたのも事実だ。全日本新人王、日本、東洋太平洋と次々と王座を獲得。無敗のまま突っ走り、1995年12月、ついに世界挑戦の時を迎える。同時にミドル級という響きに絶望感も漂った。国内で世界戦が開催されたことさえない階級であり、奇跡への挑戦と言われる中でのタイトル戦となった。3回、竹原は左ボディーブローでダウン経験のないカストロから人生初のダウンを奪う。天下のミドル級王者が弱々しく膝から崩れ落ちるシーンにリングサイドの記者たちは口を開け驚き、メモする手が止まるたほどの衝撃を受けた。結果は判定勝ちだが、完勝だった。 広島から人生修行のために上京した少年は、奇跡の奪取で世界の頂点に立った。世界が注目するミドル級王者となり、我が世の春をおう歌するばずだった。 が、予期せぬどん底は再び目の前で待っていた。(続く) ◆竹原 慎二(たけはら・しんじ)1972年1月25日、広島・府中町出身。中学時代は柔道で郡大会優勝。16歳の時にプロボクサーを目指して上京。89年5月にプロデビュー。91年10月に西条岳人を7回KOで下し、日本ミドル級王座獲得。その後、東洋太平洋王座も獲得(6度防衛)。V6戦では挑戦者・李成天(韓国)と珍しい相打ちでのダブルノックダウンとなる中、判定で防衛に成功。95年12月に日本人初の世界ミドル級王者となる。引退後の2002年7月に2階級制覇王者の畑山隆則と共同でジムをオープン。過去にはラップCD「下の下のゲットー」を発売したもある。身長186センチの右ボクサーファイター。通算戦績は24勝(18KO)1敗。家族は妻との間に1男女。
報知新聞社