研修医時代には末期がん患者に別の病名を伝えたことも…同級生から4年の遅れを取った「光免疫療法」開発者・小林久隆が研究者であるのにこだわったワケとは
◆年1500件の内視鏡検査 臨床を3年やったら大学の研究室に戻るつもりだったが、病院の人事の都合でストップがかかった。現場に医師が足りないというのだ。さらに1年、臨床医として診療を続けた。 「当時はほとんど病院に住んでいるようなものでしたね」と小林は言う。 最初に受け持った患者を4人連続で亡くして以来、小林は何かを吹っ切るかのように、「徹底的に臨床をやった」そうだ。 「朝から晩までずーっと臨床です。がんの内視鏡の検査だけでも1年で1500件を超えるペースでやってました。夜になったら自分で病理の勉強もしてましたけど、うとうとしているとあっという間に朝が来る。その繰り返しでした」 学生時代にやっていた研究をフォローすることすら難しかった。 「なにせあの4年間は、忙しすぎて論文を1本しか書いていませんからね」 「毎日毎日相当暗い顔をしていた」小林に、声をかけてくれたのが京大の核医学の助教授だった遠藤啓吾だった。小林は遠藤に誘われたこともあって、大学に戻る決心をしたという。猛烈な受験勉強をして院試を突破し、京大の大学院に入った時には小林は29歳になっていた。 学部時代の同級生からは4年の遅れを取っていた。 「まさに周回遅れですよ。一から仕切り直しだと思いました。僕がやっていた放射線治療だけじゃなくて、当時の抗がん剤治療も、外科手術も、がんに対しては決定的な治療ではありませんでした。本当に多くの、実際の患者さんを臨床の現場でこの目で見ていましたからね。どうにかしてがんに効く治療法を作りたいと考えていました」 大学院時代の小林が学位論文に没頭したことはすでに触れた。そして、NIHに留学し、戻ってきた小林は「どん底の研究生活」にあえぐことになる。 小林が、それでも研究者であることにこだわったのはなぜなのだろう。
◆「がんこ」で「しつこい」 本人は自身のことを「がんこなところがある」と評する。「しつこい」とも言う。小林の母、孝子も「がんこなところのある子だった」と言う。 小林は1961年、父・久盛と母・孝子の間に兵庫県西宮市で生まれた。両親の名からそれぞれ音をもらい「ヒサタカ」と名づけられた。両親はともに中学や高校で教職にあった。父はのちに西宮市の教育長を長く務めた。幼い頃は両親が働いていたから、おばあちゃんによく懐いていたという。 興味のある対象には食いつく一方で、興味のないことにはまるで関心を示さない子供だった。 「小さな頃から少し大人びたところがある子でしたね。クレヨンを渡してもスケッチブックには絵を描こうとしない。でも、ある時、何か一生懸命に手を動かしてるなと思ったら、一面にびっしり数字ばかり書いていたんです。教えてもいないのに。あれにはさすがに驚きました。それから、言葉を覚えるのもずいぶん早くて、まだ2歳だというのに大人と普通に会話をしていましたからね」 東京オリンピックが開催された年、孝子の背におんぶされた3歳の小林は、商店街に飾られた万国旗を指さしては、「これはアメリカ!」「ギリシャ!」「日本!」と言ってまわりの大人たちを驚かせたという。その一方、幼稚園では小林だけがお遊戯で踊らず、周囲を戸惑わせた。 「イヤと言ったらきかないところがありました。でも、自分の興味があればどんどんやる、そんなタイプの子供でしたね」 小林は気難しいタイプではない。むしろ気さくだ。取材でも、自分の研究内容などについては真剣な表情で真摯に答えるが、リラックスした場面では饒舌だし、冗談も飛ばせばよく笑いもする。