研修医時代には末期がん患者に別の病名を伝えたことも…同級生から4年の遅れを取った「光免疫療法」開発者・小林久隆が研究者であるのにこだわったワケとは
◆「めっちゃ普通の人間」 小林が民放のバラエティ番組でカラオケを歌っているのを見たことがある。どういう経緯でそうなったのか、NIHの狭い研究室でマイクを握らされていた。制作側の演出なのだろうが、まんざらでもなさそうな表情だった。こんなことを言っていたこともある。「人前で何かを話す時は、まあ、場所にもよりますけど、関西人らしく一回は笑いをとりたい」 「研究者と言っても、普段はただの関西のおっちゃんですからね」 笑って言うのは母の孝子だ。 「実家に帰ってくると、阪神タイガースとX JAPANと乃木坂ナントカの誰それが好きな、私よりミーハーなおっちゃんです」 そういう孝子も品がありながらも関西人らしいサービス精神と陽気さに溢れている。取材時はもうすぐ米寿を迎えるという年齢だったが溌剌としていて、ひとり息子の趣味を嬉々として話す声には茶目っ気と凛々しさが同居していた。 「でも、仕事に関しては本当に真面目。我が子ながら、自分の信じた道をまっすぐに歩んできて、その道を踏み外さなかったのは偉いと思います」 小林自身もこう言う。 「僕は、求めるものにはこだわりはありますけど、めっちゃ普通の人間だから、結局は研究が楽しいから続けてこられたのかなあ。どうだろう。でも、医療開発の現場は、楽しい、おもしろいだけではやっていけない世界でもある。もうだめだと諦めそうになったこともありますよ。でも、そんなふうに心が折れそうになった時に支えになっていたのは、やっぱり、がんばれば人の役に立つ、という思いだけですよね」
◆母から見た息子の姿 孝子が言うには、小林は帰国するたびに、今では夫が亡くなり、孝子が独りで住む西宮の実家に時間が許す限り立ち寄るという。アメリカにいる時は毎日一回、オンラインで安否確認の連絡が入る。そんな息子だ。 「私には息子の仕事のことはさっぱりわかりません。でも、聞けばいろいろと教えてくれるんですよ。いつだったか、ふと、こんなことを言っていました。医学と化学と物理学が一緒になった世界は美しいんよと。きっと自分の研究で何かをつかんだ後のことだったんでしょう。普段よりずいぶんとしゃべっていましたし、取り組んでいる仕事のことを丁寧に話してくれました」 推測に過ぎないが、それはおそらく、光免疫療法が世に出る前後のことだったのではないか。 「その時、ああ、私には分かり得ないその場所に、あの子の世界が広がっているんだなあと印象深かったです」 ※本稿は、『がんの消滅――天才医師が挑む光免疫療法』(新潮社)の一部を再編集したものです
芹澤健介,小林久隆