大国に挟まれた弱小民族だったユダヤ人は、戦の神「ヤハウェ」を崇めた
ユダヤ教における唯一絶対の神であるヤハウェはかつて、破壊や怒り、戦争の神として崇められていた。キリスト教が広まる以前のユダヤ教の成り立ちについて、社会学者の大澤真幸と橋爪大三郎が、対話形式で解説する。 「日本の宗教は何?」と海外の人に聞かれたとき、仏教と神道の関係を説明できる? ※本記事は『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸)の抜粋です。
神は戦うために必要だった
──大澤 旧約聖書を読むと、三分の一ぐらいは歴史のことが書いてあります。『創世記』の最初のほうは、つまり天地創造のことで、今しがた話題にした、神が人間をつくったことなども書かれています。それは明らかにフィクションと言いますか神話的です。 しかし、旧約聖書は、そういうところからだんだん、実際にあった話がそれなりに伝承されて文字になったものだろうと解釈できる部分へと、つまり本当の歴史へと変わっていきます。旧約聖書の記述は、こういうふうに神話と本来の歴史、フィクションと事実とをないまぜにしていますから、これだけからはユダヤ教の客観的な歴史はわかりません。 そうすると、実際問題として「ユダヤ教はいつユダヤ教になったのか」ということが気になります。おそらく学者の冷めた目で見れば、あの地域にいたユダヤ人たちも初期の段階では周囲の共同体のそれと大同小異の宗教を抱いていたのでしょう。 しかし、その宗教は、やがて、非常に独特の厳しい一神教でGodと契約するというアイデアに固まっていきました。一般的にはいつごろ、どういう社会的背景のもとでユダヤ教はユダヤ教になったと説明されていますか? ──橋爪 年表を見てみると、エジプトの出来事と、メソポタミア(バビロニアやアッシリア)の出来事に、パレスチナ一帯(当時はカナンといっていました)の歴史が挟まれるかたちになっています。 両大国に挟まれた地域(カナン地方)に、イスラエルの人びとがいた。エジプトとメソポタミアの両大国に挟まれた弱小民族が、ユダヤ人だったという歴史がわかると思う。島国で安全だった日本とは、まるで正反対なんです。 さて、ユダヤ教の成立時期なんですけれども、だんだん出来ていったものなので、はっきりしたことは言えない。 ヤハウェという神が最初に知られるようになったのは、紀元前1300~前1200年ごろだと思います。そのころ、のちに「イスラエルの民」といわれるようになる人びとが、この地に入植しはじめた。神々のひとつとして、ヤハウェがあがめられるようになった。 これが、それなりにユダヤ教らしくなったのは、ずっと時代がくだって、バビロン捕囚(紀元前597~前538年)の前後。すっかりユダヤ教になったのは、イエス・キリストより後かもしれない。 ローマ軍の手でエルサレムの神殿が壊されて、ユダヤ民族は世界中に散らされてしまったんですね。神殿がなくなったので、律法を重視するいまのユダヤ教のかたちが確定した。というわけで、1500年ぐらいかけて、徐々に成立しているんです。 これだけ長い間に、ユダヤ教はずいぶんかたちを変えているので、以下、マックス・ヴェーバーの『古代ユダヤ教』(名著です!)を下敷きに説明します。 ヤハウェは、最初、シナイ半島あたりで信じられていた、自然現象(火山?)をかたどった神だった。「破壊」「怒り」の神、腕っぷしの強い神だったらしい。そこで、「戦争の神」にちょうどいい。イスラエルの人びとは、周辺民族と戦争しなければならなかったので、ヤハウェを信じるようになった。 日本にも似たような、八幡という神がいます。もともとは九州の国東半島あたりの神だったのが、戦争に強いということで、石清水に祀られ、鎌倉の鶴岡八幡宮にも祀られて、武士の守り神になった。 ともかくヤハウェは、戦争の神。イスラエルの民がそのもとにまとまった。