40歳過ぎたら下り坂「残りの人生をどう生きるか」 稲垣えみ子×中村明澄医師の対談「手放すことは怖くない」
また、当時は終末期で呼吸が止まった場合でも、ほぼ全例、「ご家族は外でお待ちください」と、心臓マッサージや人工呼吸をする心肺蘇生を30分程度頑張っていました。でも、息を吹き返すことは難しく、処置が終わったあとで、家族は呼ばれて病室に戻ります。 稲垣:病院としては、最後まで「ベスト」を尽くさなければいけない。 中村:でも、これだと亡くなる瞬間に患者さんは家族と一緒にいることができません。こうした病院での医療に疑問を抱いていたときに、訪問診療の現場を見学したら、患者さんが自宅で治療を受けながら普通に生活し、家族に見送られながら最期を迎えていました。その姿に感動して、そういう仕事がしたいと思ったのがきっかけです。
■「幸せな最期って何だろう」って 稲垣:いいお話ですね。在宅医になられる前から“幸せな最期”について考えていたのですか? 中村:ひたすら仕事をしていた時期に母を病気で亡くし、はじめて自分の人生と向き合いました。自分のことを考えるうちに、患者さんにとっての人生って何だろう、幸せな最期って何だろうって考えるようになっていきました。 稲垣さんが、モノやお金を媒介しない幸せを見つけるにいたったきっかけは何だったのでしょう。
稲垣:50歳で朝日新聞社を辞めたことが大きかったです。あ、嫌になって辞めたわけではないんです。40歳になったころ、とあるきっかけで「もうすぐ人生の折り返しだ」と気付いたんですね。 当時はまだ「人生100年時代」という言葉はなくて、寿命は80歳くらいという感覚だったので。ということは、これからは下り坂の人生なんだなと。それまでずっと、収入が増え、家を大きくし、モノも増やし、つまり「上っていく」のが当たり前という人生観でした。でも最後は死ぬのだから、坂を下りていかないといけない。そのことにはっとしたんです。
中村:定年まで会社に残るという選択肢はなかったのですか? ■「若いころはよかった」と言いながら… 稲垣:最初はもちろん定年まで勤めるつもりだったんです。でも定年で退職したとしても、上っていくことがいいことだという価値観を持ち続けていたら、その後の人生はすごく惨めなものになるということに気づいた。 だって定年になれば、使えるお金も減るし健康も確実に失われていくわけで、失っていくこと、つまり「下っていくこと」が惨めという価値観のままでいたら、「若いころはよかった」と言いながら、決して短くない人生後半生を生きることになるわけじゃないですか。それは絶対嫌だったんですね。ならば価値観を変えないといけない。そう思うようになりました。