少女マンガにニューウェーブをもたらしたマンガ家・岡崎京子。女の子たちの夢や憧れではなく、「一人の女の子の落ちかた」を書こうとしていた
◆岡崎京子の生い立ち 東京オリンピックを目前に控えた1963年、岡崎京子は東京の世田谷区下北沢に理髪店「ハナビシ」の長女として生まれた。自宅の理髪店にあるマンガや雑誌を読んで育ち、小学校時代にはすでにひと通りのマンガを読破していたという。 小学校5年生の時に、友達の家で読んだ萩尾望都の『ポーの一族』に衝撃を受け、マンガ家を志す。 萩尾望都と言えば少女マンガ史に燦然(さんぜん)と輝く大家だが、『ポーの一族』は中でも永遠に生きる吸血鬼一族の物語を描いたファンタジーであり、当時の少女マンガとしては異色の作品であった。少女マンガの王道ではない作品に岡崎が強く惹かれたのは特筆すべき事柄であろう。 中学入学と同時に、マンガ少女だった岡崎京子は音楽に目覚める。今度は、お小遣いのほとんどをレコード代に費やすロック少女となるのだ。 当初はクイーンやベイ・シティ・ローラーズ、エアロスミスなどを聴いていたが、しだいにパンクやニューウェーブに音楽の趣味が移っていく。中学3年生のことだった。 マンガもそれまでの少女マンガから高野文子やひさうちみちおなど、既存のジャンルにとらわれないニューウェーブ系を好むようになる。 高校1年の夏には、白泉社の『花とゆめ』のマンガスクールに16ページの作品を投稿するが、結果はCクラスだった。 もし、そのまま順調に『花とゆめ』で少女マンガ家としてデビューしていたらどうなっていただろうか。一連の岡崎京子作品は生まれていなかったかもしれない。少なくとも現在のような評価を得ることはなかったのではないか。
◆雑誌『ポンプ』に投稿を始める 自身が愛読してきた少女マンガの世界から外れてしまった岡崎京子は、翌年から雑誌『ポンプ』に投稿を開始する。 『ポンプ』とは現代新社(後に洋泉社に社名変更)から発行されていた読者投稿誌であった。すべてが読者からの投稿で成り立っていた『ポンプ』はインターネットの先駆けとも言われ、後に有名になった投稿者として、岡崎京子を筆頭に尾崎豊、デーモン小暮などが名を連ねている。 この『ポンプ』へのまめな投稿が結果的に岡崎京子の新たな道を切り開くことになるのだ。『ポンプ』の投稿イラストがやがて中森明夫の『東京おとなクラブ』や大塚英志の『漫画ブリッコ』での連載へとつながっていく。 1982年には高校を卒業し、短大でデザインを学び始める。短大入学とともに髪を切り、毎日違う服装で通学する岡崎京子。流行のファッションを身に纏った彼女は、新宿ツバキハウス火曜日のDJ大貫憲章による「ロンドンナイト」にも毎週通うようになる。 80年代前半のツバキハウスは日本で最もロックでオシャレなディスコとして名を馳せていた。とりわけ「ロンドンナイト」は洋楽のロックを日本に広めた最高にクールなイベントとして、今でも伝説的に語り継がれている。 80年代前半、私は毎週のように『ツバキハウス』に足繁く通ってた。火曜日にやっていたロンドンナイトの日はパンクの人やギンギンにニューウエイブな人や、とにかくスットンキョウな格好をした人が束になって集まっててホント面白かった。今のディスコやクラブみたいなナンパーさはまったくない。もろ体育会系。根性入れて踊らんかい! って感じ。基本的に当時のディスコはフリーフードだったから、食べれて飲めて時間つぶせて遊べて、貧乏な人にとっては夢のような空間でした。 (『CREA』1994年4月号) この岡崎の「ロンドンナイト」体験は、後の『東京ガールズブラボー』をはじめとする作品にも活かされた。とりわけ彼女のファッションと音楽への並々ならぬ情熱はその後の岡崎作品の通奏低音を成していると言えるだろう。
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