柴崎友香「発達障害の検査はまるで自分の《地図》を作るよう。困りごとは人によって違うから、〈それぐらい、いいのでは?〉と余裕を持てる世の中に」
◆困りごとを気軽に話せるように この本を出してから、さまざまなメディアの取材依頼があったり、同じADHDの方からもそうでない方からも感想が届いたりしました。 それで、「ここは私と似ているけれど、ここは違う」「自分のこういう部分に気がついた」など、互いの微妙な違いについて人と話すことが増えて。 たとえば「料理は面倒」という話題で共感しても、私は片づけに手間がかかる揚げ物が面倒ですが、「細かい味つけが面倒。その点、揚げ物はラク」という人も結構います。 調味料も、私は目分量がラクですが、「適量」「少々」と言われると分量がわからず困る、という人も。そういう発見、自分と違う世界の感じ方を知ることがとても面白いのです。 こうした違いは、本来「優劣」で捉えるべきものではありません。でも、かつて私が「会社勤めができない」と感じたように、片づけや遅刻の話になると途端に「できる/できない」で語られてしまいます。 ADHDであることについても、「全然そんなふうに見えない」「私も片づけが苦手だから大丈夫」と言われることがありました。悪気がないのはわかりますが、言葉の裏に「みんな同じなのがいい」という考えがあるように思います。 そもそも今は、「これくらいできて当たり前」と要求されることが多いと感じていて。しかも「努力すればできるはず」と刷り込まれるから、「私はあれもできない、これもできない」と苦しくなってしまいます。 SNSできれいに片づいた部屋や手料理を目にすることが増えたのも、「普通」のハードルを上げているのかもしれません。 「ほかの人は頑張っているんだから、これくらいでつらいと言ってはいけない」と考えてしまいがちですが、そうすると、誰もが「困っている」と言い出しにくくなる。困りごとは気軽に話せばいいし、聞いたほうも解決を急がず、「へぇ」といったん受け止めればいい。 多少うまくいかないことがあっても、「それぐらい、いいのでは?」と余裕を持てる世の中なら、みんなが過ごしやすくなるのではないでしょうか。 (構成=野本由起、撮影=本社・武田裕介)
柴崎友香