能登「集団移転」の悩ましさ 道路が寸断され、豪雨に襲われても同じ地区に住む理由 #災害に備える #知り続ける能登
震度7の揺れと公民館への避難
2024年1月1日午後4時10分。能登半島では、半島の形を変えるほどの大きな揺れが人々を襲った。道路は寸断し、家屋は倒壊するなど、どの地域でも甚大な被害が出た。 浦上地区で区長会長を務める喜田充さん(75)は当日の様子をこう振り返る。 「正月なんで、息子家族も来ていて家族団らんの時間を過ごしていました。ちょうどドアの前に立ち上がったところで地震がきました。最初は震度5程度かな、という揺れでしたが、しばらくしたら震度7の地震がきた。家が潰れるんじゃないかというくらいのひどい揺れで、およそ1分間だったそうですが、本当に長く感じました。こんなことは75年生きてきて初めての経験でした」
外に出ると、近隣の人も同じように外へ出ていた。見ると隣家は「ぺちゃんこに潰れていた」。周囲では、家屋が倒壊して道路に飛び出すなど衝撃的な光景が広がっていた。喜田さんが近くの公民館に向かうと、すでに7、8人が集まっていた。 「公民館は窓も破損していて寒いし、泊まれる環境になかった。そこで、許可もなく隣の民家の畑にあるビニールハウスにゴザと座布団、ストーブを運び込んで、そこで寝ました」 その日は30人ほどがビニールハウスで夜を明かした。電気は通っていたが、水道は止まり、通信も一部のキャリアしかつながらなかった。他に、車中泊をした人が20人くらい、倉庫で寝た人が5、6人、焚き火をして徹夜した人も10人。全員で60人くらいが周囲に避難していたという。 翌日には避難者が増え、やむなく公民館に移動した。破損した窓にブルーシートを張って風をしのぎ、館内の片付けや掃除をして環境を整えた。
輪島市中心部への避難はできなかった。浦上地区から輪島市中心部へと向かう国道249号が寸断されていたためだ。公民館への避難は発災後1週間がピークで、約180人が避難していた。 「最初の頃は雑魚寝。10日くらい経って段ボールベッドが届き、少し空間が取れるようになった。でも、公民館は寒いし、衛生環境も悪い。途中でインフルエンザもはやりました。そこから息子や親戚の家に移っていく人も次第に増えていき、3月には100人くらいになりました」