《ブラジル》渋沢栄一の隠し子ブラジル移住説? あちこちに残る「痕跡」や「足跡」
その日の午後にサンパウロ市まで帰る予定だったが、〝予想外〟に植民地で時間をくってしまい、テコテコ(単発機)の出発に間に合わず、最寄りのイグアッペで一泊することに。敬三は《おかげでイグアッペに泊まれると内心大喜びであった。柳沢さんに案内されホテル・サンパウロに泊まる。全くの田舎宿で興趣がある。柳沢さんを交え四人で夕食を取った後、街の広場でサーカスがかかっていたのでちょっと入って見る。(中略)この間東京で見た映画「道」に出てくるサーカスをもう一段貧弱お淋しくしたものであったが田舎町の情緒にあふれ内容よりそれが面白かった。更に農事試験場に勤めている日本人が柔道の夜間教授をしているのを見にちょっと立ち寄る》(129頁)など予定外の柳沢との親交を堪能したようだ。 敬三は同著書の総括的所見の中で、南米との関係改善に注力するように提言し《わが国―ラテン・アメリカ間の将来の経済交流の拠点を形成する》《わが国の移民を一層経済的に向上せしめ、わが国―ラテン・アメリカ文化、経済関係の強力な紐帯(じゅうたい)たりうるように育成していく。なお、移民に対してのアフターケアーは機械類のそれより優先すべきである》と書いている。 敬三の日程を見ると、リオやサンパウロ、ロンドリーナなど大都市中心で、日系関連では東山農場、アサイー移住地、桂移住地ぐらいしか訪問していない。わざわざ柳沢家を訪ね、イグアッペで夕食を共にしたあたり、歴史好きには「もしや、何かあるのでは」と思わせるものがある。
今でも日系団体会館にある渋沢栄一の書
渋沢の「痕跡」としては、日系社会のあちこちに書「総親和総努力(皆が仲良く努力し合う) 八十九翁 渋沢栄一書」という落款を捺された額も挙げられる。サンパウロ市近郊モジ・ダス・クルゼス市のピンドラーマ会館、同市の日本語モデル校にもある。南伯農協中央会に飾られていた同額は、先ごろ移民史料館に寄贈された。 これは印刷だが、当時のものだ。『拓魂永遠に輝く』(モジ五十年祭典委員会、1971年)を紐解くと、ピンドラーマ植民地の額の由来として、修養団主幹の蓮沼門三がこの書を寄贈したとあった。蓮沼門三は24歳で小学校教師の傍ら1906年に社会運動団体「修養団」(本部=東京)を創立した。27歳だった1909(明治42)年6月13日、若き日の蓮沼は支援を求めて渋沢に面会し、修養団の精神を熱烈に説いた。 まだ青二才だった蓮沼の話に、人生の円熟期を迎えていた70歳の渋沢は共感を覚えた。渋沢は活動進展に期待して支援を申し出て、翌年から終生顧問を務めた。 すでに雲の上の存在だった渋沢と、一介の小学校教師に過ぎなかった蓮沼は最初、面会すらできなかった。その際に苦労して面会するまでのエピソードが、修養団が日本で発行している機関誌『向上』21年6月1日発行の第1312号にある山崎一紀修養団主幹のコラム《渋沢栄一と蓮沼門三》で次のように紹介されていた。