《ブラジル》渋沢栄一の隠し子ブラジル移住説? あちこちに残る「痕跡」や「足跡」
最初はレジストロに入植し、海外興業株式会社(海興、ブラジル拓殖会社の後身)から道を開ける仕事を請け負った後、「桂植民地に移って農協を作る手伝いをしてくれ」と海興から薦められ、1924年に桂へ移ったという人物だ。 2013年、桂植民地があったイグアッペ市に住む柳沢喜四郎の息子、元市議会議員の柳沢嘉司ジョアキンに問い合わせた際、「お祖父さんの名前は確か春吉じゃないかな。『青淵』? 聞き覚えないね」とあっけなく否定されガッカリした。 その際、渋沢栄一記念財団の渋沢史料館(東京)にも問い合わせてみたが、「渋沢の子どもの中に喜四郎の名前は確認できない」とのことだった。つまり《喜四郎の父青淵》という記述の裏は取れなかった。とはいえ、「明らかになっていない隠し子」だった可能性もないわけではない。
ブラジルで渋沢の孫が「いとこ同士の対面」?
連絡を取った渋沢史料館の学芸員からの勧めで、『南米通信』(渋沢敬三、角川書店、58年)を読んでみて再び興奮した。実は、渋沢栄一の孫敬三が1957年9月4日、忙しい日程を割いて、わざわざ桂植民地を訪れていたからだ。2カ月間の南米視察旅行の途中にたち寄った。敬三は第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)を歴任した人物だ。 なぜ興奮したかと言えば、桂植民地で案内をしたのが当時市会議員だった柳沢ジョアキン本人だったからだ。つまり、もしも柳沢喜四郎が本当に隠し子だったら、敬三とジョアキンは「いとこ同士の対面」だった。その意味で、移民史オタクには実に興味深い組み記述だった。 敬三は、柳沢家のピンガ蒸溜施設を見た後、《更に上がったところが桂の中心地で小さな公会堂もあり近辺の方々がより集まって紅茶とビスケットで心からの歓迎をして下さりうれしかった。老人連は青淵のことを少しは覚えていたが、その時分から現代までが一足飛びに来てしまった如くその間の歴史は寧ろ無変化の表情で、まったく大正初期の感じをつめ込んだ缶詰をあけたような気がした》(『南米通信』、128頁)との文学的な言い回しで感慨を表現している。