《ブラジル》渋沢栄一の隠し子ブラジル移住説? あちこちに残る「痕跡」や「足跡」
一方、渋沢は今から95年前、「南米拓殖株式会社」の創立に関わった。この南拓は、1929年からアマゾン最大の移住地トメアスーなどの拓殖事業を行った。今もトメアスーは続いており、ここから日本人によるアマゾン開拓が始まると同時に、来年開催されるCOP30で再注目されるといわれる「森林農法」のような自然共存型の農業という知恵が生まれた。 ただの農業労働者を送り出すのではなく、定住するのに必要な中堅リーダー層育成を目指した「海外植民学校」設立にも支援した。熱心なクリスチャンだった創立者の崎山比佐衛(ひさえ、1875―1941年、高知県)は、戦前の軍国主義に強い影響を受けた日本の満蒙開拓の方向性に疑問を抱き、日本人の平和な海外発展の道は南米以外に無いとの結論に至り、この学校を作り、自らアマゾンに移住した。 義父がこの学校の卒業生だったパラグァイ在住の故坂本邦雄さんが2019年にニッケイ新聞に寄せた寄稿文(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190905-61colonia.html)の一節に、次のような逸話がある。 《崎山先生は、日本資本主義の父といわれた渋沢栄一子爵にお百度参りをし、学校の建設資金を依頼した。ところが、いつまでも色よい返事がサッパリなかった。しびれを切らした崎山先生は、最後には渋沢翁の禿げ頭を大きな手で押さえ、持ち前の大きな声で聖書を片手にお祈りをしたところ、さすがの翁も折れて、必要資金を出して下されたという〝武勇伝〟の持ち主だ。 開校後、崎山校長は翁の別荘を、学校の創立記念日には学生達を引連れて挨拶に参上し、渋沢翁の訓話を聞きながら、茶菓子を御馳走になって一同帰って来るのが恒例だったと言う》 それら組織は無くなっても成果自体は現在も残っている。
実はブラジルに渋沢栄一の隠し子?!
以前、ブラジル長野県人会創立35周年『信州人のあゆみ』同刊行委員会、1996年刊行)を読んだ時、次の記述を見つけて驚喜した。《(柳沢)喜四郎の父青淵は、政府の要請によって一九一三年三月に東京で設立されたブラジル拓殖株式会社の創立委員長を務めた人である》(73頁)とあったからだ。 「青淵」(せいえん)は渋沢の雅号だ。この県人会誌の記述が本当だとすれば、「もしや柳沢喜四郎は渋沢栄一の隠し子ではないのか?」と考えられる。渋沢に多くの隠し子がいたことは有名な話だ。堀江宏樹が月刊誌『プレジデント』オンラインに執筆した記事(https://president.jp/articles/-/56162?page=1)には《渋沢が認知した最後の子は、彼が68歳の時に生まれています。(中略)認知しなかった子を含めると100人ほど子どもがいた…という〝伝説〟の持ち主でもあります》とある。 渋沢はブラジル移住事業にも情熱をかけていた。ならば隠し子の一人ぐらい、ブラジル移住していてもおかしくないのでは――と以前から思っていた。 柳沢喜四郎、長野県の農家出身で、名前の通り四男だった。『ブラジル国イグアッペ植民地創立廿周年記念写真庁』(海外興業株式会社、1932年、安中末次郎撮影、32頁)によれば1918年(大正7)年9月の博多丸でブラジル移住した草分けだ。