《ブラジル》渋沢栄一の隠し子ブラジル移住説? あちこちに残る「痕跡」や「足跡」
《門三が一筆一拝の祈りをもって長さ六間(約十メートル)にも及ぶ手紙を渋沢翁に送ったところ、「ご書面を拝見して、君の熱誠に感じ入った。ついては、この次の日曜日に会うからくるように」という返事をもらったのです》と書かれている。 『修養団三十年史』(同団編集部編、1936年、65―68頁)には、その時の面会で渋沢が語った言葉が書かれている。 《熱心に傾聴して居られた(渋沢)翁は、やがて口を開かれた。 『色々と承って修養団の精神がはっきり判りました。悦ばしい団結です。 自分は予て、算盤と論語とを以て処世の要道として来ました。その何れも欠いても行けない。貴君方の愛と汗は、正しく算盤と論語――経済と道徳――を一致せしめるものです。そしてこれが国家社会を明るくする道です。 私は貴君方青年に期待する。邦家の為により一層の努力を続けてください。不肖私も力の限り助力さして戴きませう。』 静かな老男爵の微笑が感激にふるへる主幹を送り出した》 蓮沼門三の求めに応じて、渋沢はブラジル日系社会向けに「総親和総努力」の書を渡したようだ。蓮沼門三の弟信一は1926年にブラジル移住して修養団の活動を始めた。その息子の芙美雄に聞くと「門三は1952年にブラジル中を8カ月間も歩き回った。その際に書を置いていったものでしょう」とのことだった。それが、今も日系団体の会館には大切に掲げられている。
渋沢は日本移民に南米との架け橋との役割を期待
渋沢栄一が大事にしてきた論語の一節に「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊(ばんぱく)の邦といえども行われん」というものがある。言い換えれば、移住先国で誠実さや忠誠心を忘れずに生活を送り、敬意をもって現地国人に接すれば、相手国で誰に邪魔されることなく、生活を送っていけるという移住生活の心得とも読める。これは、明らかに金だけ稼いで早く帰るというデカセギ意識とは異なる。息子篤二や孫敬三の名の由来にもなっており、彼が指針としてきた言葉だ。 ブラジルで日系人は116年を経る中で、良くも悪くも「真面目」「正直」「誠実」「約束励行」などの評判を得てきた。これは明治の渋沢栄一が日本移民に期待していた「日本と南米のかけ橋」としての存在、敬三の言葉では「強力な紐帯(じゅうたい)」という役割そのものではないか。(深、敬称略)