「絶対にみんな喜んで死んでゆくと信じてもらいたい」…特攻に選ばれた若者たちが見せた「出撃前夜」の「あまりに異様な様相」
突然の特攻隊指名
二五二空戦闘三〇二飛行隊分隊士の角田和男少尉は、神風特攻敷島隊が突入に成功した昭和19年10月25日以後も、偵察飛行などの任務に駆り出されていた。10月29日には、米軍の手に落ちたレイテ島のタクロバン、ドラッグ両飛行場の銃撃のため、戦闘三一六飛行隊長・春田虎二郎大尉の指揮下、零戦12機でマバラカット西飛行場を出撃している。 「しかしこの日は故障機が多く、攻撃が行なえずに夕刻、レガスピー基地に不時着しました。この頃の飛行機は品質が悪く、故障のために命を落とす搭乗員も大勢いた。しかし私は、内地で出撃待機している頃、勤労動員された女学生が一生懸命働いているのをまのあたりにしてますから、彼女たちが必死の思いで作ってくれた飛行機で故障があっても文句は言えない、この飛行機で全力で戦って死ぬまでだと思っていました」 と、角田は私に語っている。 もはや、フィリピン各基地の指揮系統は、マニラやクラーク、セブ、ダバオといった大きな基地をのぞいては寸断されているにひとしい。レガスピーに不時着した春田大尉や角田少尉たちは、翌日の行動のことは自分たちの判断で決めるしかなかった。 10月30日。春田大尉の発案で、タクロバン飛行場の黎明攻撃をしてからセブに向かうこととし、まだ暗いうちに敵の地上陣地に銃撃を加えてからセブ基地に着陸した。 基地で朝食を出してもらい、一服していると、午前10時頃、基地指揮官の二〇一空飛行長・中島正少佐に呼ばれ、出撃命令を受ける。 「ただいま索敵機より情報が入り、レイテ沖に敵機動部隊を発見した。ただちに特攻隊を出さなければならないが、搭乗員に若い者が多く、航法に自信がもてないので春田隊の直掩を命ずる。任務を果たした場合は帰投してよろしい。だが、戦死した場合は特攻隊員と同様の待遇をする」 突然の特攻隊指名に、角田は驚き、緊張した。 中島少佐が、特攻隊の攻撃法を説明する。 まず、二〇一空の制空隊2機、新井康平上飛曹、大川善雄一飛曹は先発し、敵上空直衛機を艦隊上空からなるべく遠くへ誘出、空戦場に引きつける。 特攻爆装隊一小隊は、3分遅れて基地を発進、この隙に体当たり攻撃を敢行する。 一番機・山下憲行一飛曹、二番機・広田幸宣一飛曹、三番機・櫻森文雄飛長。 直掩一番機・春田虎二郎大尉、二番機・角田和男少尉。 さらに3分遅れて、特攻二小隊が出発。 一番機・崎田清一飛曹、二番機・山澤貞勝一飛曹、三番機・鈴木鐘一飛長。 直掩一番機・畑井照久中尉、二番機・藤岡三千彦飛長――。 中島は、ここで、声を一段高くして言葉を継いだ。 「直掩機は敵機の攻撃を受けても反撃はいっさいしてはならぬ。爆装隊の盾となって弾丸を受け、爆装隊に対する敵機の攻撃を阻止すること。戦果を確認したならば帰投してよろしい。制空隊も、二個小隊の突入を確認したなら、離脱帰投してよろしい。もし、離脱困難の場合は最後まで戦闘を続行すること」 角田は、顔がこわばるのを感じた。これまで、ソロモンや硫黄島で無数の修羅場をくぐり抜けてきている。しかしその角田でさえ、こんな鬼神のように厳しい命令を受けたのは初めてだった。 中島はさらに、今回の爆装隊員は朝日隊、大和隊の搭乗員だが、両隊ともに何人かは突入に成功し、全軍に布告されているので、もし、これが成功すれば新しく別の隊名を命名する、と付け加えた。この特攻隊は、のちに葉櫻隊と呼ばれることになる。