ジリ貧だったパ・リーグ球団が見出した活路、「巨人一強ビジネスモデル」を超えた「地域密着型」の球団経営
しかし、球団側の営業努力も十分とは言えなかった。 ロッテオリオンズが、千葉市にできた千葉マリンスタジアムを本拠として「千葉ロッテマリーンズ」と名前を変えたのは1991年のことだが、当初、観客動員は伸び悩んだ。当時を知る元球団職員は 「最寄りのJR海浜幕張駅で毎日、無料のチケットを配ったが、受け取ってもらえないことが多かった。地元の人はタダでも野球を観なかった」 と語る。 ■ 「観客なんて来るわけない」が当時の球団経営者の感覚 筆者は1980年代後半、南海ホークスの本拠地、大阪球場に通い詰めていたが、入場口の横には無料招待券が山積みされていた。係員は、近所に住む子供に招待券を渡して「誰でもいいから連れて来てくれ」と言っていた。 南海ホークスが福岡に移転したのは1988年のことだった。本拠地の大阪球場は10年後に取り壊され、その跡地には「なんばパークス」という商業施設が建った。 このあとで、南海電鉄の関係者に話を聞く機会があったが「南海ホークスがあったころの大阪球場は、年に100万人も動員できなかった。でも『なんばパークス』は2000万人も来場する。プロ野球を手放してよかった」と語っていた。 要するに、当時のプロ野球経営者は「お客なんて来るわけがない」と思い込んでいたのだ。当時から各球団が「ファンクラブ」のようなものを持ってはいたが、それはごく少数の「贔屓筋」へのサービスに過ぎず、ファンクラブを集客の核にするような発想はなかった。
■ 千葉ロッテが起こした「革命」 そこに新たな風を吹き込んだのが、千葉ロッテマリーンズだった。前述のように、1991年、千葉マリンスタジアムに移転したころは、周辺住民でさえ行きたがらないような球団だったが、1995年から監督に就任したボビー・バレンタインは、チームの強化だけでなくMLB流のファンサービスの導入にも尽力した。 ユニフォームをシャープなデザインのものに一新した。またファンの応援を、高校野球の応援のような「鳴り物中心」から、サッカーのような手拍子、掛け声のスタイルに変えたのもこのころからだ。 1998年、ロッテはNPB記録の18連敗を記録した。昔のファンであれば、モノを投げ込んだり、罵声怒声を浴びせかけたり、ファンはチームを激しく非難しただろうが、この時のロッテファンはチームを励まし続けた。「マリーンズ、俺たちがついている」という横断幕は、全国に深い感銘を与えた。 この時期から、プロ野球のファンは変貌し始めたと言ってよい。 2004年の「球界再編」を機に、千葉ロッテはファンサービスの抜本的な改革に取り組んだ。 当時の事業部門の責任者は筆者に、 「目標としたのは、新規顧客の獲得とそのリピーター化でした。そのために二つのコンテンツを用意しました。 一つは、野球にあまり関心がない人に球場に来てもらうためのコンテンツ。例えば有名歌手のミニコンサートだとか、地方の物産展だとか、内容は野球でなくてもいいんです。むしろ野球から離れた方がいい、そういうイベントで野球に関係のないお客に来てもらう。 そして二つ目はそうして来た、あまり野球に関心がないお客を野球ファン、リピーターにするためのコンテンツ。千葉ロッテの場合、それが『応援団』だったのです。あの情熱的な応援を見聞きしたお客が、私たちもああいう応援をしたい、と思ってファンクラブに入る。そういう形で顧客を増やしたのです」 と語った。