「暴力の源は戦争を生む近代文化と個々の心にひそむ」戦犯たちの最期を見届けた教誨師が訴えた~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#69
1953年12月に巣鴨遺書編纂会から発刊された「世紀の遺書」。太平洋戦争に敗戦後、連合国によって戦犯として囚われ、死刑執行や獄中での病死や事故死、あるいは自死した人たち、合わせて1068人のうち、701人分の遺書や日記などをまとめたものだ。その序文は、「スガモの父」と呼ばれた田嶋隆純教誨師が執筆したー。 【写真で見る】寄せられた戦犯たちの遺書
平和条約発効で文芸活動が活発に
福岡県出身でBC級戦犯としてスガモプリズンにいた冬至堅太郎の手記には、1952年8月16日に、「戦犯死没者遺稿編纂を企図す」と書かれていて、ほか二人と共に3人で発起人になったとある。「世紀の遺書」をまとめた巣鴨遺書編纂会のメンバーは冬至を入れて8人だった。そして顧問には、スガモプリズンでの死刑執行の際、最後まで戦犯たちに寄り添った田嶋隆純教誨師が就任した。 1952年といえば、サンフランシスコ平和条約が発効した年だ。前年の9月8日午前、サンフランシスコで52カ国が参加して開催された平和会議で、吉田茂総理は平和条約に署名した。そして午後には日米安全保障条約の調印も行われた。この二つの条約は1952年4月28日に発効した。 〈写真:サンフランシスコ平和条約署名式(1951年)〉 これにより、スガモプリズンの管理はアメリカから日本へ移管された。移管後は、戦犯たちの実体験を元に戦犯裁判の記録を作ったり、(「戦犯裁判の実相」1952年巣鴨法務委員会)や「歌集巣鴨」(1953年巣鴨短歌会)を出版したりするなど文芸活動も活発になっていった。 一方で、アメリカとソ連の冷戦構造の下、1950年6月に勃発した朝鮮戦争は53年7月の休戦まで続いており、「世紀の遺書」編纂の時期は、まさに熾烈な戦闘の最中だった。 〈写真:日米安全保障条約交付原本(国立公文書館HPより)〉
暴力の源は近代文化に内在
こうした状況の中で田嶋教誨師(肩書きは巣鴨教誨師・大正大学教授)は、「世紀の遺書」の序文を次のように記した。 (「世紀の遺書」序文) 第二次大戦の終結の中にすでに次の大戦の兆が生れ、正義と平和を実現しようとする国々の努力が、却って世界を自殺的な危機に駆りたてるとは何と云う大きな矛盾でありましょうか。今日の日本の政治経済或は思想上の混乱も、謂わばこの世界的矛盾の一環に過ぎません。 第三次世界大戦が起れば幾千年の文化は破壊され、人類は滅亡に瀕すると云われていますが、このような暴力の源は原子兵器でもなければ細菌戦でもなく、実にかかる戦争を生むに至った近代文化に内在するものであり、更に遡れば現代人個々の心にひそんでいるものと云わねばなりません。 〈写真:歌集巣鴨(1953年巣鴨短歌会)〉