追悼…ラソーダ氏が「おまえら出ていけ!」と怒鳴った野茂英雄氏デビュー前夜
ロサンゼルス・ドジャースで20年間、監督を務めたトミー・ラソーダ氏が亡くなった。93歳だった。ラソーダ氏は昨年11月に入院、ICUに入るほどの危篤状態を脱して年明けに退院したばかりだったという。ラソーダ氏は1976年途中から1996年6月までドジャースの監督として2度のワールドシリーズ制覇を含む4度のリーグ優勝を果たした。退任後は野球殿堂入りし2000年のシドニー五輪ではアメリカ代表の監督としてチームを金メダルに導いた。監督時代にもつけていた背番号「2」はドジャーズの永久欠番だが、日本のファンには、1995年にドジャースに入団した野茂英雄氏(52)のメジャー挑戦の第一歩を成功に導いた監督として知られる。
「トルネード・ノモ」を全米に広げる
「オレにはドジャーブルーの血が流れている」 ラソーダ氏の名言だが、1995年2月のベロビーチキャンプから野茂氏のメジャー挑戦を追いかけていた筆者は実際に何度もこの言葉を耳にした。当時監督のラソーダ氏は、一度、話し出すとまるで演説のようなマシンガントーク。野茂氏が来るまで巨人や中日がドジャースのベロビーチでキャンプを張っていたこともあり、アイク生原氏もチームいて、多少なりとも日本球界とのつながりがあったラソーダ氏は、長嶋茂雄氏、王貞治氏、星野仙一氏といった名前をいつも出して親日家ぶりをアピールしていた。 当時、渡米過程でマスコミに不信を抱き、神経をピリピリさせていた野茂氏の「野球に集中したい」の希望で、彼への取材は4日に一度に制限されていた。それだけに毎日、取材に応じるラソーダ氏は日本の取材陣にとっては恰好のネタ元だった。とりわけ愛想がいいわけではなかったが、いざ会見となると演説が始まるのだ。ときには太鼓腹を出してシャツとパンツ一丁でクラブハウスのパスタを食らいながら気楽に話す。話に中身はなかったが、見出しにはなった。 近鉄時代に一般公募で命名された「トルネード・ノモ」を全米に広めたのもラソーダ氏ではなかったか。記憶は定かではないが、野茂氏の初ブルペンか何かのタイミングでベロビーチをとんでもない暴風雨が襲った。ラソーダ氏は「トルネードがトルネードを呼んだ。それほど野茂のボールは凄かった」とリップサービス。それが米メディアのヘッドラインになった。 忘れられないのは野茂氏のデビュー前夜の出来事である。