追悼…ラソーダ氏が「おまえら出ていけ!」と怒鳴った野茂英雄氏デビュー前夜
1995年5月1日、サンフランシスコのジャイアンツの本拠地キャンドルスティックパーク。翌日に先発予定だった野茂氏の取材のためにアウエーのドジャースロッカーは日本の報道陣であふれかえった。ドジャ―スタジアムのロッカーでは日本人記者は締め出されていたが、敵地に行くと、そのルールは関係なく、ここぞとばかりにテレビカメラからレポーターまで、野茂氏目当てに殺到したのである。 今の時代なら会見が設定され、こういう事態はありえないのだろうが、そこは無法地帯となり、他の選手への迷惑を気にしていた野茂氏はキレた。ペロっと大きなお尻をだし「これなら写真も映像も出せないでしょう! もうええかげんにしてくださいよ!」と激怒したのである。そこに登場したのだがラソーダ監督だった。ロッカー内の異常事態をみかねたラソーダ監督は、ドカドカと巨体をゆすって監督室から出てくると大声で怒鳴った。 「ゲットアウト!(おまえら出ていけ!)」 報道陣を蹴散らかしてこう言った。 「何か聞きたいことがあれば私がなんでも代わりに答える。オレにインタビューしろ。ヒデオにかかわるな!」 ドジャースを追う現地メディアの番記者は、「トミーがこんなに怒るのは初めてみた。異例だ」と目を丸くしていた。 野茂氏のことを「マイサン(息子)」と言い続けてきたラソーダ氏は、まさに体を張って野茂氏のデビューを守ったのである。 翌日、野茂氏は、バリー・ボンズ、マッド・ウィリアムスとナ・リーグを代表する強打者が揃ったジャイアンツのクリーンナップに1本のヒットも許さず、5回91球を投げ被安打1、無失点、奪三振7の内容。試合は延長にもつれて勝ち負けはつかなかったが、ラソーダ監督は、野茂氏を「ストレートもフォークもすべてのボールが素晴らしかった。次は勝つだろう。彼はメジャーでやっていける」と絶賛。その後、野茂氏をローテーションで起用し続け、6月2日のメッツ戦で初勝利をあげるとストライキで停滞していたメジャーに新風を吹き込み、「ノモ・マニア」と呼ばれるブームを全米に巻き起こした。 野茂氏は、日本人初のオールスターに選ばれて先発、このシーズン通算13勝6敗、防御率2.54、236奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得して新人王に輝いている。 ラソーダ氏は、イタリア系移民だったという背景もあり、多民族が集結したロサンゼルスという街のチームの監督に適していた。同じくイタリア系のマイク・ピアザ捕手に野茂をリードさせ、ラウル・モンデシー外野手らスペイン語圏の選手らをうまくまとめた。 「ユニホームの背中の名前ではなく、胸の名前のためにプレーしろ!」が、彼の哲学。「ドジャーブルー」の話とともに、このフレーズも演説のたびに出てきた。野球の戦術、戦略はコーチに任せ、いわゆるドジャース戦法と呼ばれた采配の妙をラソーダ氏から感じたことは一度もなかったがドジャースのシンボル的な“親分”だった。 そういう親分肌のラソーダ氏だからこそ周囲の雑音を封じ込み、野茂氏のメジャー挑戦の第一歩を成功に導くことができたのかもしれない。野茂氏は、現在所属しているパドレスを通じて「感謝しても感謝しきれない方です」と追悼のメッセージを贈った。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)