【追悼】ハーブ研究家・ベニシアさん …夫との日々「もがきながら、やっと見つけた二人の生き方」
ベニシアさんと再婚、”終の住処”で育てた二人の夢
郊外の自然が豊かで静かなところを、と100軒くらい探し、ようやく見つけた“終の住処”。「ベニシアは、“ついに私が死ぬ家を見つけた!”とはしゃいでいました」 幼い頃、広大なマナーハウス(貴族の館)で乳母に育てられたベニシアさんは、いつも家族が一緒に過ごせて手作りの庭がある庶民のコテージに憧れていたそう。大原の家は、その憧れを形にできる理想的な場所だったのでした。 とはいえ、湿気が多い山裾にある庭は青々としたコケに覆われ、少しでも雨が降ると池のように水がたまる始末。梶山さんは、家の手入れが終わるや否や、ベニシアさんのために庭の大がかりな排水工事を決行します。 ベニシアさんも負けてはいません。本を読み漁り、専門家と見れば話を聞き、教えを請い……。後に梶山さんが“鬼のガーデニング”と評するほどの勢いで学び続け、同時に人脈も広げていきました。
二人三脚で紡いだ、大原での暮らしとレシピ
2005年、54歳のベニシアさんにハーブを使ったレシピの本を出さないかと声がかかります。ところが「ベニシアは、“ただの料理本ではなく自分の人生のことを書きたい”と言うんです」(梶山さん) 華やかでも退屈な貴族の暮らしを捨て、インドでの瞑想修行を経て、大原の自然の中に安住の地を見つけたベニシアさん。その経験から学んださまざまなことを、たくさんの人に伝えたい、という強い思いがほとばしった瞬間でした。 そうして初めての書籍『ベニシアのハーブ便り』(世界文化社刊)を上梓。ハーブを日常に取り入れるさまざまなレシピはもちろん、四季折々の美しい写真を織りまぜて大原での暮らしをつづったエッセーは、たちまち人気になります。 撮影、翻訳、文章の構成を担う梶山さんとの二人三脚で、その後もベストセラーを連発。テレビ番組「猫のしっぽ カエルの手」が放送されると、さらに多くの人の支持を集めました。
もがきながら、やっと見つけた「二人の生き方」
しかし、夫婦としては決して順風満帆ではなかったと梶山さんは明かします。ベニシアさんは梶山さんと結婚するとき、前の夫との間の子どもが3人いました。 「ベニシアの家族だからうまくやろうと思ったし、努力もしたけれど……」。 次女は発達障害があり、若くして未婚で妊娠・出産後に統合失調症を発症。そのサポートは梶山さんにとって思いがけない負担でした。 さらに、そんな娘への対応もそこそこに、何があっても庭とハーブと仕事を優先するベニシアさん自身にも我慢できなくなり、家を飛び出したこともあったそうです。 なんとか家には戻ったものの、不満は小さくくすぶり続けます。梶山さんはあえてベニシアさんらから一歩離れた立場の“傍観者”となることで、その不満から目をそらし、波風を立てない道を選んだと言います。 梶山さんの、そんな冷めた視線を変えたのは、皮肉なことにベニシアさんの病気でした。 65歳を過ぎた頃から「目が見えにくい」と訴えるようになったベニシアさん。いくつもの病院を回り、最後に大学病院で下された診断は「PCA(後部皮質萎縮症)」という脳の病気でした。病気は徐々に進行し、やがて家事はおろか、あんなに情熱を注いだガーデニングも、さらには歩くことさえ難しくなっていきました。 ある日ベニシアさんは、一緒に散歩したりスーパーに買い物に行くときは、腕を組むか手をつないでゆっくりと歩いてほしいと訴えます。 “あんなにたくましかったベニシアが僕を頼っている”そう気付いたとき、梶山さんの中で長年くすぶり続けたわだかまりが、するすると解けていきました。 「人間は一人で生きて一人で死んでいくのだとずっと思っていました。でも今は違う。大切な人と出会い、夫婦になったら最後まで二人で生きていくんだと思います」と、やわらかな表情でベニシアさんを振り返る梶山さん。 「彼女が僕を必要としているだけじゃなく、そんな彼女を僕は精神的に頼っている。こんなふうになって、ようやく僕はベニシアと正面から向き合えた気がしています」 取材・文=松尾肇子(ハルメク編集部)、撮影=林ひろし、梶山正 この記事は、雑誌「ハルメク」2023年月7月号を再編集しています。
雑誌「ハルメク」