「戦争だから仕方ない」みんなそう思っていた──サンリオ辻名誉会長が語る軍国主義教育の恐ろしさと、「みんな仲よく」の信念 #戦争の記憶
「夜が明けて家に戻ると、甲府の町はほとんど焼けていました。うちは120畳の大広間もあるような大きな家ですが、そこも焼け野原。跡形もありませんでした」 辻さんはその後、甲府市の北のほうにある父親の実家まで歩いていき、父と弟とはそこで再会した。 「たった一晩のことでしたが、なにしろ焼夷弾がどんどん落ちてきて、まわりで人が死んでいく。それがどういうことか。実際に体験した人でないとわからないでしょうね。なぜ、何も罪のない人を殺すのか。なぜ、殺されなくてはいけないのか。でも、当時はみんな『戦争だから仕方ない』って言うんです。戦争とは、人を殺すこと。人を殺すというのは、とんでもないことだけど、戦争の場合はしょうがない。そう、みんな思っていた。しかも甲府の町が一面の焼け野原になっても、私自身、日本が戦争に負けるとは思っていませんでした。日本はどの国よりも強いし、絶対に勝つと信じていた。ずっとそういう教育を受けてきましたから。それだけ、国のプロパガンダが刷り込まれていた、ということでしょう」
「仲よくなるためのもの」をビジネスに
終戦の玉音放送からしばらくたち、大学の寮に戻ると、寮長のような立場で駐在していた海軍少佐は自死したと聞かされた。 「玉音放送は、録音されたものを、大学の先生から聞かされました。でも、なにがなんだかわからない。わからないながらも、それを聞いて、『いよいよアメリカが攻めてきたら北海道にでも逃げるしかないか』などと友だちと話していました」 応用化学を勉強していた辻さんは、その後、アメリカ軍が使用していたパラシュートについて調べるようにと言われた。その過程で大きな衝撃を受けたという。 「アメリカのパラシュートの傘は、化学繊維のナイロンでできていた。そんなもの、当時、日本にはありませんでした。日本のパラシュートは、絹でできていたんです。でも絹と比べると、パラシュートの素材としては、ナイロンのほうが圧倒的に向いている。パラシュートひとつとっても、アメリカ軍との性能の差は歴然としています。あぁ、これはもう、かなわなかったのも当然だと思い知らされました」