「戦争だから仕方ない」みんなそう思っていた──サンリオ辻名誉会長が語る軍国主義教育の恐ろしさと、「みんな仲よく」の信念 #戦争の記憶
焼夷弾とは、目標を爆破するための爆弾ではなく、中に入っている燃料が燃焼することで、対象物を火災に追い込むための爆弾だ。当時はほとんどの建物が木造家屋だったため、焼夷弾によりあちこちで火の手が上がり、あっという間にあたりは火の海になった。 「当時は防火用水をためておくため、家の前に貯水槽を置いたものですが、貯水槽に覆いかぶさるようにして亡くなっている女性がいました。近くにいた男の人が抱き起こしたら、赤ん坊も亡くなっていた。熱いから赤ちゃんを水の中に入れて、守ろうとしてかぶさっていたところに、背中に火がついたんでしょうね」
どぶ川を伝って郊外へ逃げた
熱さに耐えかねた辻さんは近くの濁川に入り、川を伝って火の手から逃れようとした。 「濁川は生活排水が流れ込むどぶ川で、本当にきったない川なんですよ。でも熱くて熱くてどうしようもないから、妹を負ぶって、その臭い川に浸りながら逃げたんです。ずっと逃げて逃げて、田んぼのほうまで行った。妹と田んぼで呆然としているうちに夜が明けました」 市街地に住む多くの市民が郊外の田んぼに向かって避難したが、途中、火で行く手をふさがれた人たちは公園へと逃げた。しかし猛火は公園にも迫り、そこで焼死や窒息死する人も少なくなかった。 改めて空襲の経緯を追うと、7月6日、23時23分頃、空襲警報が発令。23時47分頃、愛宕山に照明弾が1発落とされた。照明弾を落としたのは、市街地を明るく照らし、爆撃対象地を正確に把握するためだろう。そして23時50分頃より、131機のアメリカ軍B-29爆撃機による焼夷弾を用いた絨毯爆撃が開始された。空爆停止は7日の午前1時45分頃で、米軍の資料によると、投下された焼夷弾は約970トン。約2時間にわたる無差別攻撃の結果、市街地の約74%が焼き尽くされ、1127人が亡くなった。焼失した町のあちこちに焼死体が累々と倒れ、大やけどをして救いを求める重傷者も数多くいたという。