「戦争だから仕方ない」みんなそう思っていた──サンリオ辻名誉会長が語る軍国主義教育の恐ろしさと、「みんな仲よく」の信念 #戦争の記憶
サンリオ創業者の辻信太郎さん(94、辻のしんにょうの点は正しくはひとつ)は17歳のときに山梨県甲府市で空襲にあった。生家があった場所は焼け野原になった。このとき目にした惨状が「みんな仲よく」というサンリオの企業理念につながったという。「戦争は絶対にいけないということを、みんなどんどん忘れていっている」。戦争を経験した辻名誉会長がいま伝えたいこととは。(取材・文:篠藤ゆり/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
火の粉で服が燃え上がった
山梨県甲府市は、かつては甲斐武田氏の城下町として栄えた町。南アルプスや八ケ岳、奥秩父山系などの山々に囲まれた盆地で、天然の要塞とも言われてきた。太平洋戦争末期になると上空をアメリカ軍B-29爆撃機が通過することもあったが、とくに爆撃されることはなかったため、甲府は空襲にあわないだろうと楽観していた人もいたようだ。 1945年7月6日の山梨日日新聞朝刊には、こんな記事が掲載されている。 「背後に山を負った甲府だ。戦国時代、人を城や石垣の天然の城壁になぞらえて、城郭を築かなかった信玄も、躑躅ケ崎背後の自然の天嶮には人間と同様大きな信頼感を持ったものらしい。その自然の山岳形象が、敵機爆撃にも相当の味方として従えていることは一つの強味であるともいえる」(『山梨日日新聞』昭和20(1945)年7月6日「銃座」欄) だが皮肉なことに、その日の夜中、「甲府空襲」によって甲府市は壊滅的な被害を受けてしまう。
当時、辻信太郎さんは17歳。1945年3月に甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高校)を卒業、桐生工業専門学校(現・群馬大学工学部)に進学していたが、空襲の日はたまたま帰省していた。生家は料亭を営んでいたが、時節柄、閉鎖中。母親は13歳のときに亡くなっており、広い家には父、弟、妹が暮らしていた。 「ちょうどサクランボの最盛期だったので、7月6日、地元の友人の家にサクランボを採りに行きました。枝ごと切ってもらって、担いで家に帰り、夕食を終えて──。ほっと一休みしているときに空襲警報が鳴り、外を見たら、空が真っ赤になっていたんです。これは逃げるしかない、と。父は弟を自転車の後ろに乗せて、先に家を飛び出した。私が8歳になる妹を連れて裏玄関に行ったら、もう家の一部が燃え始めていたので、そのまま妹を背負って家を飛び出して逃げました。外に出たら、恐ろしい爆音とともに、空から焼夷弾が雨のように降ってくるんです。すぐ近くにいた人の服に、火の粉がついて燃え上がるのも見ました」