秀吉と隆景から評価された安国寺恵瓊の「洞察力」
■秀吉にも認められた恵瓊の「洞察力」 恵瓊は秀吉の実力を見抜いた「洞察力」が認められ、豊臣政権の外交官としての役割も任されるようになります。四国征伐では連絡役として大坂と毛利軍の間を行き来し、総大将の豊臣秀長(ひでなが)にも使いをしています。 その成果が認められて伊予国に2万3千石の領地を与えられ、九州征伐後には6万石に達したと言われていますが、恵瓊が大名になったのかに関しては、諸説あります。 毛利家が大坂城へ参勤した際には、隆景たち毛利家臣団を秀吉や秀長たちとともに、豊臣家側の人間として迎えています。 九州征伐では豊臣政権の外交官として従軍し、各勢力との調整や交渉を行っています。肥後国人一揆にも出陣し、調略によって田中城を落城させるなどの活躍を見せています。 一方で、毛利家の九州への国替えの噂を内々に隆景に伝えたり、輝元の後継者問題において甥の秀元が養子に認められるように尽力したりしています。恵瓊は秀吉の側近のような立場にあったと言われますが、豊臣政権内における毛利家の地位を維持するために尽力していきます。 恵瓊の「洞察力」に助けられつつ、毛利家は政権内での地位を維持していきます。 ■予測できた毛利家の地位低下 1597年に隆景が、1598年に秀吉が相次いで亡くなると、豊臣政権内部では奉行衆とそれに反発するものたちで対立が起きます。 加えて、徳川家康を中心に五大老の間でも主導権争いが生じていきます。毛利家が懇意にしていた石田三成(いしだみつなり)が失脚し、家康が政権の主導権を握るようになると、家中の領地問題に介入されるなど、毛利家の地位低下の予兆が生まれ始めます。 家康を中心とした派閥と、三成の派閥が対立を深めると、恵瓊は反対する吉川広家(きっかわひろいえ)たちを振り切って、輝元を説得して西軍への加担を推し進めます。 「洞察力」に優れた恵瓊は、政権内における毛利家の地位が低下していくと判断し、三成たちの計画に賛同したと思われます。 恵瓊は四国や九州の諸侯を説得し、東軍に対抗できる勢力に拡大させていきます。当初、毛利家は四国や九州へ派兵するなど、作戦を優位に進めています。 しかし、毛利家内部の掌握に不備があり、黒田家の調略を防げず、毛利軍は関ヶ原の本戦で広家たちの邪魔を受けて動けなくなります。そして、小早川秀秋軍の寝返りによって西軍は大敗してしまいます。恵瓊は毛利家への罪を減らすために、西軍参加の責任を一人で背負い、京の六条河原にて三成たちとともに斬首されてしまいます。 ■外部への「洞察力」と内部への「掌握力」 恵瓊は織田家の実力や秀吉の将来性を見抜き、毛利家の地位向上に成功したように「洞察力」に優れていたのは間違いないようです。ただ、外部に対しての予測や推察に優れていた反面、内部については隆景の人心掌握力に頼っていた部分が大きすぎたのかもしれません。 現代でも、組織の外部環境などに「洞察力」が向きすぎて、内部の状況把握が疎かになり最終的に失敗してしまう例は多々あります。 関ヶ原ののち、広家たちの予測や期待は裏切られて毛利家は大幅な減封となり、著しく地位が低下してしまいました。 ちなみに通説では、恵瓊は小心者のために自害を恐れていたとされていますが、それとは別に敗戦の責任を取って切腹しようとした恵瓊を、広家が止めて落ち延びるように勧めたという説もあります。
森岡 健司