江川卓のピッチングを参考にした川口和久は、高めのストレートで勝負する球界を代表する左腕へと成長した
そう言って川口は巨人のエース・菅野智之の名前を出し、こう続けた。 「菅野が打たれるパターンっていうのは、コースを狙いすぎてカウントが悪くなり、ストライクをとりにいったところをやられる。バットの芯が一番遠いところは、やっぱりインコースだと思うんです。インコースに速い球を投げてファウルでカウントをとれれば、三振を奪うチャンスが増えます。三振を狙いにいく時は、インコースで追い込んでから、最後はアウトコースのギリギリを狙う。最初からコーナーを狙って投げるとカウントが悪くなっちゃうので、そういうリスクは避けなきゃいけないっていうのは思っていました」 その点、江川は抜群のコントロールを誇ったため、コーナーを狙ってカーブで簡単にカウントをとり、勝負球に高めの速いストレートで三振をとるスタイルを主流としていた。 ただ川口も江川同様に、インコース高めのストレートで空振り三振をとっていたイメージがある。本人も「高めの球でも空振り三振をとっていました」と認めるように、高めのストレートで空振りがとれる自信を持っていた。そこにはスピードよりも回転数が大きく関係しているのだった。 (文中敬称略) つづく>> 江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin