上杉謙信の美談「敵に塩を送る」はやっぱり作り話!?宿敵・信玄が塩を受け取った逸話の真相とは
NHK大河ドラマシリーズや映画など、様々な形で現代まで語り継がれてきた日本の歴史。しかし、日本博識研究会によると「中学や高校で学んだ日本の歴史の常識は大きく変わっている」そうで――。そこで今回は、日本博識研究会が日本史の「新常識」をまとめた著書『あなたの知らない日本史の大常識』から「上杉謙信の逸話」についてご紹介します。 【書影】古代から近現代まで…日本史の見方が180度変わる一冊。日本博識研究会『あなたの知らない日本史の大常識』 * * * * * * * ◆義に生きた武将・謙信の美談は作り話? 上杉謙信(うえすぎけんしん)と武田信玄(たけだしんげん)は11年間、5回にわたって戦ったまさに宿敵同士である。 その信玄に謙信が塩を送ったという美談は、知らぬ人のいない有名な逸話。 だがこの逸話は、実は後年になって作り出された架空の話ではないかともいわれているのだ。
◆そもそもなぜ塩が手に入らなくなったのか 1568年、武田信玄はそれまで同盟関係にあった駿河(するが)の今川氏真(いまがわうじざね)を攻めた。 武田氏の領地である甲斐(かい)と信濃(しなの)は内陸だったため、塩を含む海産物等は今川氏の駿河方面から運び込んでいたのだが、この争いが始まってからは今川氏が商品の流通をストップ。 武田氏は塩が手に入らなくなってしまった。
◆謙信が物資を送ることは常識的に考えにくい そんなときに「敵国とはいえ領民に責任はない」として謙信が武田領に塩を送った、というのがこの逸話のあらましである。 氏真が荷物の流通を止める「荷留(にどめ)」を行ったことは事実だが、川中島の戦いなどで何度も戦った武田氏と上杉氏の間にはまだ緊張関係が続いており、謙信が積極的に塩などの物資を送るということは常識的に考えにくい。 ではこの美談はどこから来たのか?
◆「塩の輸入量増」が美談の起源 上杉領の越後(えちご)から武田領の信濃へと続く糸魚川(いといがわ)街道は、古くから塩の流通ルートとして有名である。 今川氏による荷留によって駿河からの輸入が止まったことで、民間ルートでは糸魚川街道からの輸入量が必然的に増えた。 この事実が「謙信からの贈り物」として美談になった、というのが真相のようである。 ※本稿は、『あなたの知らない日本史の大常識』(宝島SUGOI文庫)の一部を再編集したものです。
日本博識研究会
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