朝ドラ『虎に翼』この言葉は私の肺腑をえぐる… 原爆裁判の判決に対する原告側の反応は?
NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』は、第23週「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」が放送された。寅子(演:伊藤沙莉)らが担当する「原爆裁判」はいよいよ結審を迎え、判決が言い渡された。涙ぐむ山田よね(演:土居志央梨)や亡き雲野六郎(演:塚地武雅)の遺影を見つめる岩居(演:趙珉和)らは一体何を思うのだろうか。今回は史実の原爆裁判における判決と、後に原告側代理人が著書に記した思いを取り上げる。 ■8年に及ぶ原爆裁判で下された「世紀の判決」 原爆裁判は、昭和30年(1955)に訴訟が提起され、同年7月16日に第1回準備手続きが行われた。27回に及ぶ準備手続きが終了したのが昭和34年(1959)11月19日のことで、第1回口頭弁論は昭和35年(1960)2月8日に行われている。判決が下されたのは、昭和38年(1963)12月7日で、じつに8年にわたる裁判が終わった。 判決理由においては、「広島、長崎両市に対する原子爆弾の投下により、多数の市民の生命が失われ、生き残った者でも、放射線の影響により一八年後の現在においてすら、生命をおびやかされている者のあることは、まことに悲しむべき現実である。この意味において、原子爆弾のもたらす苦痛は、毒、毒ガス以上のものといっても過言ではなく、このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反しているということができよう」などと述べられている。ここで全てをご紹介することは叶わないが、判決によって原爆投下は国際法違反であると明確に断言されたのである。 しかし、原告らの損害賠償請求権に関しては国際法の法主体は国家であり、被爆者は国内法上の権利救済を求めるしかないことなどを理由に棄却された。ドラマでも描かれた通り、被爆者の救済は裁判所(司法)ではなく、国会(立法)と内閣(行政)にその職責があると名言されている。 そして最後に、「終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これ(原爆被害者に対する救済策の構築)が不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである」と結んでいる。まさに異例の判決だった。 国際法上も国内法上も、この判決に至ることは妥当であると受け止められていたし、そのなかで裁判を担当した東京地方裁判所民事第24部が可能な限り踏み込んだ判決理由を述べ、原爆投下が国際法違反であるとしたことは大きな意義を持つことも明白だった。その上で、やはり原告側にはやりきれない思いがあったことも事実である。 日本反核法律家協会が公開している資料によると、この判決に対して原告の1人である下田隆一さんは「国が少しでも親心を出してくれるのではないかと淡い希望を抱き8年間も頑張り続けてきた。とても残念だ」と述べたという。 また、原告代理人を務めた弁護士・松井康浩氏は昭和43年(1968)刊行の著書『戦争と国際法 原爆裁判からラッセル法廷へ』でこの裁判を振り返り、「この言葉は、私の肺腑をえぐる」「判決が被爆者の権利を否定したことは、多くの学者がやむを得ない所とし、裁判所も被爆者に深甚の同情を示し、政治の貧困をぶちまけてはいてもなお遺憾と言わざるを得ない。被爆者としては、政治の貧困を嘆かれても現実の救済にならないのであって、裁判所から見放されては、もはや救われないのである」と述べるとともに、自身の力不足であったと反省の言葉も残している。 しかし、この裁判はその後の日本、そして世界をも変えていく。日本では昭和43年(1968)に被爆者特別措置法が施行され、平成7年(1995)の被爆者援護法施行へとつながってゆく。また、平成8年(1996)に国際司法裁判所が「核兵器の威嚇または使用は武力紛争に適用される国際法の規則、特に国際人道法上の原則・規則に一般的には違反するであろう」という旨の勧告的意見を出した背景には、この原爆裁判の顛末も大きく関わっていた。ただし、その裏側に、当時報われなかった当事者の方々の思いがあることも忘れてはならないだろう。 <参考> ■日本反核法律家協会「原爆裁判・下田事件アーカイブ」 「昭和三〇年(ワ)第二九一四号、昭和三二年(ワ)第四一七七号損害賠償請求併合訴訟事件」
歴史人編集部