選択の果てで見つけた表現の道 障害者のパフォーマンス集団「態変」主宰、金滿里さん あの日から④
19歳のある日、突然かかってきた一本の電話が人生の光明となる。金滿里(キムマンリ)さん(71)は3歳でポリオに罹患(りかん)し、首から下の全身がまひした。重度障害者として施設の中で10年間もんもんと暮らした多感な10代の終わり。「まだ若いのに人生が真っ暗で先が見えへんなあ、と思っていたときの電話でした」。諦めることを強いられてきた日々の中で、自らの意思で人生を選択する道を初めて示してくれた、ある運動との出会いだった。 【写真】抽象的な身体表現で織りなす「態変」の舞台は国内外から高い評価を受けている 7~17歳まで施設で集団生活を送った。「歩けるようになりたくないのか」という職員の言葉に圧迫され、無理な歩行訓練も続けた。「ありのままを認めるのではなく、健常者に追いつく努力をしろということ。このままじゃ生きられへんねんな、と教え込まれた」 介護者である職員の顔色をうかがう毎日。あれがしたい、これがしたいという欲求は「それ自体あかんこと。全部諦めて我慢しろ、しかなかった」という。 それでも胸には「何かがおかしい」という思いがずっとあった。「ここ(施設)より広い世界が知りたい」と、周りの反対を押し切って高校に進学し、施設を退所。家族のサポートで高校生活を送っていた19歳のある日、施設時代の後輩から「私たちのグループの会合に来ないか」と誘いの電話がきた。脳性まひ者の団体「グループ・リボン」(後の「大阪青い芝の会」)との出会いだ。 健常者の価値観で障害者問題を考えるのではなく、障害者が自分の障害を自覚した上で、障害者の視点で考えようという運動体。「それまでなんとなくおかしいと感じてきたことに対して、言い返すための論理があったんだと、勇気りんりんになりました」と語る。 運動に邁進(まいしん)するため、高校を卒業した21歳の年に家族に頼らない他人介護の自立生活(1人暮らし)を始めたが、3年後に組織が内部分裂し、運動から抜けることに。すると介護者だった健常者が1人2人と去り、「運動せえへんかったら障害者はあかんのかと荒れてね。友達と飲み歩いたりディスコに行ったり、不良になりました」といたずらっぽく振り返る。 そんなとき訪れた転機が、友人の誘いで出かけた沖縄旅行だった。西表島のジャングルに車いすでたたずんだとき、大自然とそれを包む宇宙の大きさを初めて感じ、「急に『私、ひょっとしたら表現するかも』って思ったんです。不自由な体一つでここに転がるだけで表現になるやんって」。