相次ぐ昇進の最中に急逝した藤原宣孝
6月23日(日)放送の『光る君へ』第25回「決意」では、京に戻ったまひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)の様子が描かれた。一方、鴨川が氾濫して多くの人命や田畑が失われるなか、一条天皇(塩野瑛久)を動かすことのできなかった藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)は責任を感じ、ある決意をもって天皇の前に姿を現したのだった。 ■藤原道長が一条天皇に突きつけた〝覚悟〟 まひろは藤原宣孝(のぶたか/佐々木蔵之介)の求めに応じ、越前から京に帰国した。 その頃、都では、安倍晴明(あべのせいめい/はるあきら/ユースケ・サンタマリア)が新年を寿(ことほ)ぐ一方、藤原道長にはこれからしばらく凶事が続くことを予言していた。晴明が道長に語ったところによれば、地震、疫病、火事、日食、嵐、大水、あらゆるものが襲いかかるという。 その言葉通り、さっそく鴨川の堤が崩れて氾濫し、住民に多大な被害がおよんだ。道長はかねてから一条天皇に堤の修繕工事を奏上していたが、中宮・藤原定子(ていし/さだこ/高畑充希)との時間に夢中になる天皇は政務にほとんど関心を示さず、内裏にもいなかったことから、会うことさえままならない状態だった。 責任を取る形で、道長は一条天皇に辞表を提出。その表情から事態の重さを知った一条天皇は、道長を引き留める一方で辞表の受理を拒否した。 そんななか、宣孝は山城守拝命の礼に道長を訪ね、まひろを妻とすることを告げた。思いも寄らない報告に、道長は必死に動揺を隠し、平静を装いながら宣孝に祝いの言葉を述べた。 道長に勝手に知らせたことに怒り戸惑うまひろだったが、のちに思い直し、宣孝の妻となることを改めて受け入れた。その翌日、都では不吉の象徴とされる日食が観測されたのだった。 ■宣孝の死が紫式部が物語に向かう契機に 藤原宣孝は、権中納言・藤原為輔(ためすけ)の息子として生まれた。母は参議・藤原守義(もりよし)の娘。生年がいつかは分かっていない。一説によれば、950(天暦4)年前後とされている。 中宮大進、左衛門尉、蔵人などを経て、990(正暦元)年に筑前守(ちくぜんのかみ)に着任。清少納言の『枕草子』によれば、着任の直前に御嶽(みたけ)参詣を行なっており、この時に宣孝は「粗末な服装でお参りするなんてつまらないことだ」と、長男の藤原隆光(たかみつ)とともに派手な衣装で参詣に向かったという。道中で出会う人々は、その出で立ちに驚き呆れた、と『枕草子』に記されている。 宣孝の狙いとしては、きらびやかな衣装の方が、権現さまの目に留まりやすい、というものだったらしい。どうやら、旧態依然とした風習にあまり囚われない、自由闊達(かったつ)な人物だったようだ。