相次ぐ昇進の最中に急逝した藤原宣孝
筑前守に任じられたのは、この直後だったことから、これぞ参詣のご利益、と宣孝は思ったかもしれない。実際に、人々は口々に宣孝の言葉に間違いはなかった、と噂したらしい(『枕草子』)。 実際には、御嶽参詣から4か月後に、筑前守に任命されていた藤原知章が辞退したことに伴った人事だったようだ。それでも不可解な昇進だったようで、藤原実資(さねすけ)が「何の故有りて、任ぜらるる所や」(『小右記』)と批判めいたことを書いている。 そんななか、997(長徳3)年頃から、宣孝は紫式部に恋文を送るようになった。紫式部は20代後半で、当時としては婚期が遅れていたが、結婚の意思はなく、ほどなくして父・藤原為時(ためとき)の赴任に同行して越前へと旅立っていった。どうやら、宣孝が他の女性のもとに通う一方で求婚してきたことが気に入らなかったらしい。親子ほど年齢が離れていることも二の足を踏ませたのかもしれない。 宣孝は、紫式部が越前に向かった後も根気よく文通を続けた。次第に惹かれるようになった紫式部は、父を任地に残し、ひとり帰京した。田舎暮らしに退屈していたとの見方もあるが、漢籍を好む紫式部に合わせ、漢文を織り交ぜた手紙を送るなど、宣孝の細やかな心配りが紫式部の心を動かしたようだ。また、父の勧めも大きかったらしい。 こうしてふたりは998(長徳4)年頃に結婚。999(長保元)年に山城守に任命されるなど、宣孝は出世街道の真っ只中にあった。翌年頃には、ふたりの間に娘・藤原賢子(けんし)が生まれるなど、公私ともに幸せの絶頂となった。 喧嘩もあったが、おおむね夫婦仲は良好だったようだ。ところが、1001(長保3)年2月に宣孝は病を患い(『権記』)、同年4月に急逝した(『尊卑分脈』)。前年冬から流行っていた病に罹ったといわれている。 結婚生活はわずか3年ほど。宣孝が死んですぐに紫式部に言い寄ってきた男もいたらしい。しかし、きっぱり拒絶する紫式部の歌が残されている。 しばらく悲しみに暮れた紫式部は、やがてつらさを忘れるために『竹取物語』や『宇津保物語』など物語ものを、むさぼるように読むようになったという。この時期が、のちの『源氏物語』執筆に向かう土壌として、大きな意味を持つ期間になったことは間違いなさそうだ。
小野 雅彦