「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」
この12月に事件発生から109年目を迎える「三毛別事件」。凶悪熊を討ち取り、その被害を食い止めたハンターの知られざる足跡を『神々の復讐』(講談社刊)の著者中山茂大氏が追った。 【マンガ】「しすぎたらバカになるぞ…」母の再婚相手から性的虐待を受けた女性が絶句 前編記事『「胎児を含めた8人が喰い殺された」最恐ヒグマ「三毛別事件」…「稀代の凶悪熊」を討ち取った伝説のハンター「山本兵吉」の知られざる事実』より続く。
地元の名家に「わらじを脱ぐ」
小平町会議員の瀧川司氏によれば、兵吉の本籍「鬼鹿村五十二番地」には、かつて「住吉」という人が経営する旅館があったという。 「かつてニシン漁が盛んだったころは、道南から多くの「ヤン衆」(ニシン漁目当てに出稼ぎにくる漁師)が鬼鹿にやって来た。住吉は旅館業など、手広く商売をする地元の名家だった。おそらく兵吉一家も「ヤン衆」とともに、ニシン漁に沸く鬼鹿村を目指したのだろう。そして住吉家に「わらじを脱いだ」のではないか」(瀧川氏) 「住吉」とは、前編の新聞記事にある慈善家「住吉為右衛門」のことだろう。「わらじを脱ぐ」とは本来「旅を終える」意味だが、北海道では特に「開拓地に入植する」ことを意味する。上記新聞記事の通り、卯之吉は明治二十一年には鬼鹿村に居住し、すでに長く暮らしていたと思われる。おそらく卯之吉が明治の早い時期に山形県南村山郡から北海道を目指し、ニシン漁で活況を呈する鬼鹿村に「わらじを脱いだ」のではないだろうか。 戸籍を辿っていくと、明治三十一年四月二十一日に「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」から、「高島郡稲穂町十七番地」へ転住。さらに明治三十二年六月三日に、再び「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」へ再転入している。「高島郡稲穂町」とは現在の小樽市稲穂で、JR小樽駅前の一等地である。わずか一年ほどの転住に、どのような背景があったのかはわからない。
サバサキ包丁でヒグマを殺す
明治四十三年七月一日、兵吉は谷下ふよと入籍した。谷下ふよは石川県能美郡中海村の出身で、明治六年六月二十六日生まれ。兵吉との婚姻当時は四十二歳で、長女しげ(当時十五歳)、次女ふじ(同三歳)、長男藤作(同一歳)の三人の連れ子があった。 明治四十四年七月に、兵吉との間に二男、徳太郎を生んだが、大正四年五月五日、鬼鹿村字オンネ沢番外地で死去した。享年四十七歳だった(初山別にある山本家の墓誌には「俗名フユ 行年二十五才」とあり「大正三年五月五日」に死去したことになっている。しかしそれだと長女しげを十歳時に生んだことになり、辻褄が合わない)。戸籍には兵吉が再婚した記録はない。しかし鬼鹿市街地には弟、兵作一家が暮らしていたので、母ムメが同居して子供たちの面倒をみていたのかもしれない。 ここまで兵吉の来歴を見ても、熊撃ち猟師に関係する記述は見当たらない。彼はどこで鉄砲の技量を身につけたのだろうか。 木村によれば、兵吉は若い頃、南樺太(サハリン)に渡っていたという。南樺太は、もともとアイヌ、オロッコなどの先住民や、日本人、ロシア人が居住する雑居地で、明治八年の「千島樺太交換条約」によりロシア領となって以降も、日本人の漁業権が認められていた。兵吉が樺太に渡ることも難しくはなかっただろう。 「サバサキでヒグマを刺し殺した」とあるが、「サバサキ」とは文字通り鯖をさばくのに使う鋭利な包丁である。漁夫として樺太に渡り、そこで鉄砲の技術を学んだのかもしれない。というのは、鬼鹿村に戻った兵吉は、明確に猟師の道を選んでおり、それは、妻ふよに関する記載にある「オンネの沢」つまり鬼鹿市街地から二キロも内陸の「田代集落」に居住していることが証明している。 以下の新聞記事は、その示唆を与えてくれるので、少し長いが抄訳してみよう。 「札幌県下天塩国留萌郡鬼鹿村は鰊漁場にして、毎年その季節には松前郡福島村辺より出稼ぎし、六月末ころはみな帰村し、跡に残って越年するのはわずか二三十戸に過ぎない僻村だが、(中略)一夜、同村字田崎沢口の菓子渡世某方で、十時ごろなにやら突然、仏間の背後を押破る音がしたので、その家の主人は定めて馬の畑に入り来たのだろうから追い出せと職人某に命じたので、職人は直ぐさま縄を用意し外に出ると、なんぞはからん馬と思ったのは一頭の大熊で、それと見るやいなや矢庭にその職人を引き捕え肩に引担いで、どこともなく逃去った。この時職人は必死に助けを呼んだが起き出る者もなく、そのまま熊の餌食となったのは、たいそう憐れなことであった。(中略)翌朝、早速猟夫人足とも十人余りを頼み、そそくさと分けて探したところ、彼の熊は職人某の死体を半身土中に掘り埋め、余りの半身をメリメリ喰らっているのを認めたので、一同砲先を揃へて打放ちたるその弾、あやまたず、いずれもみな的中し、さすがの大熊ももろく打ち倒したので、衆人打ち集まり、熊の腹を割いてみると、かねて田沢奥(※「田代沢奥」のことだろう)に炭焼を渡世とする老父があったが、この老父も喰われたと見え、その腹中に衣類の細片になったもの、その他、結髪をシナ(木皮)で結んだままのもの等あったので、初めて右老父も害されたことを知った」(『函館新聞』明治十八年十月二日)